Mission Completed





まるで鐘の中にいるかのような錯覚に襲われる音に包まれながら、わたしを乗せた箱はゆっくりと降下している。
ううん、多分しているんだと思う。

わたしはつい今しがた自分に降り掛かった出来事に呆然としたまま、その中央にぺたんと座り込んでいた。
ジャケットから僅かに出た指先でそっと自分の口唇をなぞる。


真壁さんと行動を共に出来なくなる。
その時に真っ先に自分の頭に浮かんだのは、さっきの言葉の本当の意味を知りたがってる気持。
わたしを守ろうとしてくれている真壁さんの必死な努力の前で、周りの状況も見えなくなって、
自分の気持だけをぶつけてしまった、わたしはあなたが好きなんです、と。

この口唇に残る熱く強く、けれど泣きたくなるほど優しい感触はわたしの言葉を遮るためだけの手段?
それとも、…言葉にされなかった本当の気持?
真壁さんがわたしに移した温もりを少しでも長く感じたくて指を当てたままの口唇の、
最奥から込み上げてくる嗚咽をどうしようもなく堪えることが出来なくて。


しゃくり上げる自分の声がどこか酷く遠い所から聞こえている気がして。
それと同じくらい遠くの方から聞こえる微かな音に気付いたのは、暫くしてからだった。
わたしの嗚咽に混じって断続的に聞こえる乾いた音は、
あれは…塞ぎたくても手を拘束されて防げずに耳にこびりついてしまった、…銃弾の音?

まだ敵は残っていたの?
今、上では何が起こっているの?

「真壁さん!」
一度大きく叫んでしまってから、わたしは慌てて口を押さえる。
ダメ、ここで声を出しては。 相手に気が付かれては。
真壁さんがわたしを逃がそうとしてくれた努力が全て無駄になってしまう。


心の奥底から突き動かされる感情に任せて叫び声を上げてしまいたい。
小さな駄々っ子のようにわたしはここだと声を張り上げて、早く見つけてと訴えてしまいたい。
けれど、暗がりに洩れる嗚咽を、わたしは指を噛んで必死に堪える。
その間にも銃声は耳を貫き、…そして再び静けさを取り戻した。
何が起こったの? 真壁さんは? 
…大丈夫よね、だってわたしに『後で言う』って言ってくれたじゃない。

無駄だと分かってても向かずにはいられない上方に眼をやれば、
そこは装飾の欠片もない、ただむき出しの鉄板だけがわたしをぐるりと取り囲む。


不安でどくどくと脈打つ心臓の音だけが煩く耳に響く。
お願い、早く着いて、そして真壁さんを助けなきゃ…。


 
降下を続ける箱の下部に見える一本の線が、徐々に太くくっきりとしたものになる。
それは、外と繋がる扉の隙間から差し込む外部の明かり。
ゆっくりとした速度で降りてゆく箱に焦燥を覚え、じりじりとしながら止まるのを今かと待つ。
がくんと大きな音と振動が起こり、急く私は完全に箱が止まるかそうでないか位のタイミングで
思い切り扉を開け、そして外の扉の窪みに手を掛け下へとぐいと引く。
視界一杯に入り込んだ光の眩しさに一瞬眼をしかめたものの、
もう一度ゆっくりと眼を開ければ、そこに見えたのは激しく叩きつける雨に煙ったアスファルトの地面だった。
打ちっぱなしのコンクリートで簡素に作られた荷捌き場を横切り、
雨避けの小さな庇から身体を出した途端に大きな雨粒が次々にわたしの頭や顔を打つ。
その冷たい感覚にやっと地上へ降りたという、…敵から逃れられたんだという実感に襲われる。
思わず力が抜け、その場にへたり込んでしまいそうになるのを堪え、ぐっと足を踏みしめて走り出す。


撥ねが上がるのも構わずに、降りしきる雨で髪が額に貼り付くのも構わずに、わたしはとにかく走った。
景観の為に敷き詰められたでこぼことした敷石に、華奢なヒールの踵が取られ思わず転びそうになる。
わたしは靴を脱ぎ捨てると手に携え、先を急ぐ。
見覚えのある建物が眼前に迫り、わたしは最後の力を振り絞りエントランスへのスロープを駆け上がった。



先ほどの別棟の入口とは違う、一般の人々で溢れかえるロビーに、
あちこち汚れた姿のままずぶ濡れで、裸足のままで飛び込んだわたしに、
その場に居た人たちはぎょっとしたようにその場に立ち止まり、
或いは如何にも胡散臭げに眺めたり、或いは明らかに眼を逸らしたり。
大きなシャンデリアが吹き抜けの上方に輝き、床には白い大理石を覆う毛足の長い絨毯。
美しく立派なロビーに、今の自分はどうみても場違いだ。
こんなときにお嬢様なんて肩書きなんか何の役にも立たない。
けれど、そんなことに構っている暇も余裕も無く、
わたしは不審そうに近寄ってくるベルボーイに事の次第を伝えようとしたものの、
息が切れてしまった口から零れるのはただ喘ぐ息だけで。
その背後から、何事かとやって来た支配人を見てその腕に縋りつくように掴み、
ようやく切れ切れに発せられるようになった喉から声を絞り出す。

「別棟の…バンケットが襲われたの」
「お嬢さん、落ち着いて」
「早く、まだ中に人が居るわ。 警察に通報して」
「一体何があったのですか、詳しく聞かせてください」
「お願い、早くっ、真壁さんを助けてっ!」
気迫に押されて頷いた支配人の顔を見たわたしは、そこでぷっつりと意識を失った。





意識を取り戻したわたしの眼にクリーム色の壁紙に覆われた天井が入り、
まだぼんやりとしたままの頭で辺りを見回すと心配そうに覗き込む支配人の顔があった。

「ここは?」
「ホテルの救護室です。 今、救急車を手配していますが、何分混乱していて」
「そうだ、真壁さんは?」
ベッドに横になっていたわたしはがばりと起き上がり、支配人の腕を掴んで尋ねる。

「真壁様…というのは?」
「わたしの…ボディーガードで、あの混乱を…」
こんな、使う人の様に彼を言いたくないのに、それ以上の説明が出来ない現状の関係をやるせなく思い
ポロポロと涙が零れてくる。

「今、警察が突入を試みておりますが、何分メイン電源が破壊されたので…」
「あそこにいた警備の人達は? お客様の誰からも連絡はないの?」
「申し訳ありません、現状では何とも…」
「行きます、側に」
しどろもどろに頼りない答えを返す姿に、どんな状況になっているかと込み上げる不安に急かされ、
わたしはベットの側にきちんと揃えられた靴に足を入れ、立ち上がった。
毛布の上から掛けられていた真壁さんのジャケットをそっと抱き締め、
そして袖に腕を通したわたしを見て、支配人は無言で現場へと案内してくれた。




別棟の前には幾つもの車が体で道を塞ぐようにして止まり、
その周りは沢山の警官や、強化プラスティックの防護盾を持った人や、
分厚い防弾チョッキを身に付けた物々しい人達でごった返していた。

雑音交じりの無線が呼び掛けても機械の向こうからそれに応える声が漏れることは無く、
掴めない状況に苛立ちを見せる指揮官らの怒号が辺りを飛び交う。
万全だと謳われたセキュリティシステムは破られれば脆く、
堅牢に封された内部への侵入は困難を極めているらしかった。


そうしている間にも辺りは刻々と、しかし確実にその身に黒色を吸い込み始め、
闇の中で回る赤色灯だけが濡れた車体に掲げる盾に乱反射し、怪しげな光を放っていた。
わたしの為にと呼んだ救急車も、家から来た迎えも断り、わたしはその場で真壁さんを待ち続けた。

「蘭世」
「お父さま!」
「無事だったかい、良かった」
事の顛末を聞き飛んで来てくれたお父様は、わたしの姿を見て本当にほっとしたように息を吐いた。

「大変だったね、とりあえずは家へ」
お父様の気持は痛いほど分かるし、嬉しい、でも…。
「わたしはここで待ちます、真壁さんを。 …真壁さんが守ってくれたんです」
「彼はプロだからね」
「お願い、お父様、ここに居させて」
わたしの滅多にない懇願にお父様は驚いた様な表情を浮かべたけれど、
それでも何も言わずにただ小さく頷いてわたしの我侭を許してくださった。

と、わたしの背後、黒い一団の中から声が上がり、待ち構えていた警官隊が開かれたらしき内部へと突入して行った。

“客に死傷者無し”
“バックヤードにも人員発見、同様に死者はありません”

無線からは突入した先頭の人達が目にしていると思われる中の様子がひっきりなしに洩れてくる。
そして、報告が進むに従って警官に手を取られ、よろめきながらも自力で歩く人、
抱き抱えられるようにしながら、或いは担架に乗せられて、あの会場にいた客達がぞろりと姿を現し、
そして順々に救急車へと収容されていった。
でも、その中に真壁さんの姿は見当たらなくて…

“警備は重傷者を含め怪我人多数…”
“…犯人と思われる負傷者に…死者も確認出来ます”

無線の声は次第に緊迫を帯び、そして運び出される担架の数もぐっと増え、
近付いた担架からだらりと垂れた手に思わず足を竦ませてしまう。

“上部フロアへ逃走の痕跡あり、突入します”
“ホールC、扉付近にて負傷者発見。 犯人の一味と思われます”
“大きな血痕を発見。 このフロア…残りは犯人側の負傷者のみです”



無線から流れた機械的な声が、冷たく尖った剣となってわたしの胸を貫いたような気がした。

「うそ…」
雨は上がり、水分を内に含んでどんよりと圧し掛かるような湿った夜気に包まれて。
乾きかけの髪先から体温がすっと引いてゆくような感覚に攫われる。
掌から砂が零れていくように、自分で抱きしめる身体からは体温がどんどんと零れ出して行く。
からからに乾いて掠れた自分の声が、どこか遠くの方で聞こえるような気がして。
眼に映る物全てが次第に輪郭がぼやけ、赤に、黒に、光るライトに溶け出してゆく。


“嘘、だって真壁さんは約束してくれたもの、『後で言う』って…”


ふらふらと歩き出したわたしの行く手は怒号によって阻まれる。
ぐいと誰かに引っ張られてよろめいた足に力が全く入らない。
そのまま、ぺたりと地面に尻餅をついたまま、わたしはそれでも人気の途絶えたを入口を見つめ続けた。
けれど、紺や黒い制服を纏った人達が出入りする以外に、それらしき人影は見えなくて。

“だって、この、借りたジャケットを返さなくちゃ…”

何とか力を振り絞り、頼りない足に力を篭めて立ち上がる。
傍から見ればよろよろと頼りなげに見えるであろう足取りも、今は自分の出来る精一杯。

“どうして周りの人はそんな痛ましそうな眼でわたしを見るの?”


絶対に真壁さんはわたしのところに戻って来てくれる。

真壁さん、真壁さん、…真壁さん!

叫び出したい気持をぐっと堪えて、口唇を噛み締め、両の手を白くなる程きつく握り締める。










煌々と辺りを照らしていたサーチライトがその光を少しづつ弱めていく。
助け出され、或いは運び出された人を乗せた車両が一台、また一台とサイレンの音を立てて遠ざかって行く。
現場の検証に入る制服の人達は、自分の仕事に没頭するかの如く誰もが無口で。
徐々に静けさを取り戻し始める周囲の中で、わたしはずっとその場で祈り続けるように手を合わせていた。



また一つライトが消され、辺りは黒衣をその身に纏う。
ゆらりと蠢く一つのシルエットが、その黒衣の端を持ち上げた。


酷く頼りなげに揺れる影に、周囲もわたしも一瞬息を呑み、張り詰めた沈黙がその場を覆った。
ざわりとどよめきが走る集団に気圧された様に、慌ててシルエットへと向けられる光源。
そこに浮かび上がった人物は俯きがちに頭を垂れ、上半身を壁に預けて一歩を踏み出した。
その足に何とか縋るように地を擦る片足を引き寄せてはまた上半身を壁に預けて。
気の遠くなるような歩みで、それでも前へ進もうとしていた。
引き摺った足のズボンは大量の血を吸い色を変え、壁に押し付ける右肩は左手で押さえられているものの、
指の間から流れる幾筋もの血は手の甲を伝い、その下の傷から流れたと思われる血は
シャツの右腕部分の殆どを赤黒く変えている。


あの黒いスーツは、そして、ジャケットを羽織っていない上半身は…。

「真壁さん!」

思わず叫んだわたしの声にゆっくりと顔を上げた人物は、紛れも無く真壁さんで。
けれどその口の端には固まった血がこびり付き、端正な顔立ちを汚していた。
その眉は苦しげに顰められ、肩で吐く呼吸は荒くて。
けれど、わたしの声に気が付いたのか、その瞳に力が宿るのが分かった。
慌てて駆け寄る救急隊員を左手で押しのけ、こちらへと向かって来る。

「蘭世」
後ろでお父様の声がしたけれど。
目の前が滲んで良く見えないのも構わずに、わたしは真壁さんへと走り出していた。
肩から掛けたままわたしを包み続け、動きに遅れて地面へと落ちたジャケットをその場に残して。


「真壁さん」
もう一度叫んだ、…つもりだったけれど、涙で詰まって声にはならなくて。
そのまま、わたしは真壁さんの胸へと飛び込んだ。


流れ出る血の臭いとかすかな硝煙の臭い、…そして今までわたしを包んでいてくれたジャケットと同じ、
真壁さんの香りに包まれて。
ただ、名前を呼ぶことしか出来ないわたしの身体を、真壁さんは動く左手で抱きとめて。
強く力が篭められた腕に骨が折れてしまうんじゃないかと思うくらい、息が止まるくらいに
抱き締められたけれど、それこそが真壁さんが無事でいることの証のような気がして。
漸く緩められた腕の中、胸にしがみ付いて泣きじゃくるわたしの頭を、
真壁さんは幾度も無事を確かめるように自分の頬に寄せては温もりを確かめ、
深手を負っている手でわたしの髪を優しく撫でた。

「真壁さん…」
呟いて見上げるわたしの頬にそっと置かれた大きな掌。
その瞳は、いつもサングラスの下に隠れていた瞳は、こんなにも優しくて。
そして、いつもわたしを守ってくれていた。

「無事だったか」
「あなたのお陰です」
「そうか。 …良かった」
感情の堪えきれない声でそう呟くと、もう一度わたしを胸の中に押し抱いて。
額に真壁さんの口唇が触れるのを気が遠くなりそうな心地の中で感じながら、わたしは涙を溢した。



と、真壁さんの身体から一気に力が抜ける気配がし、
わたしは真壁さんの身体を支え切れずに一緒に地面へと崩れ落ちた。





「真壁さん、真壁さんっ!」








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背景 Abundant Shine 様








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