Mission Completed





いつも背を美しく流れる彼女の黒髪も、さすがの事態で乱れていた。
くしゃりと絡んだ髪の下で、揺れていたイヤリングが片方の耳に無いことに気が付いたのは、
上のフロアに辿り着き彼女と言葉を交わしていた時だった。


確かこのドレスの時に耳を飾っていたのは、いつも同じイヤリングだった気がする。
片側の耳で寂しそうに揺れる真紅の石を眺め、ふと思い出す。
この事態に警護をしている対象だとはいえ、服装のことまでも思い出した自分自身にも驚いた。
そして、無くした行方を馳せていることにも。
無論、落としたイヤリングが見つけられれば、それは自分達の行動を相手に知らしめることにも
なりかねない危険な種である可能性も孕んでいたが、階下である程度の危機は回避したはずだ。
それに沢山の物に囲まれている彼女にとって、その価値はどれくらいのものなのであろう。
大した物でもないかもしれないし、取り替えの利くものかもしれない。
まして、短時間の間に、何所に落としたかも分からぬそんな小さな物を再び探しに行くリスクは、
奴らの目にそれが触れる可能性と自身が見つかる危険性とを考えれば、どちらが高いかは明らかだ。
だが、こんな目に合ったからこそ、彼女が気に入っているドレスやイヤリングを、
忌まわしい記憶を呼び覚まさせるものにしたくなかった。
出来るならばその手に取り戻してやりたい。


「直ぐに戻る」
言い捨てる様に言葉を残し、踵を返すと昇ってきた暗闇へと身を躍らせた。
彼女と一緒ならばそれなりに掛かる時間も、自分一人ならばさほど時間を取ることもないだろう。
開いたフロアから射す弱い光を頼りにケーブルの隙間や埃まみれの天井に目を凝らす。
突き破った天井から下へと視線を走らせ、来た道を辿ってゆく。
砂の中に埋もれた美しい貝を探すような行為に思わず自嘲する。
一体、何がそうさせているのか、衝動の源を手繰ろうとしても今までの自分からは想像も出来ず、
答えなど出てきそうにも無かった。

「そう上手くはいかない…か」
依然動かないままの箱の中へと音も無く降り立ち、四方に視線を巡らす。
この箱の中に無ければ諦めて戻ろうと決め、踵を返そうとした視界の隅にきらりと光るものが入った。
ドアの引き込み口の隙間に埋もれていたそれは、まるで彼女の身体から剥がれた一片の花びらのようで。
そっとつまみ上げると彼女の笑い声のような涼やかな音が、揺れに合わせてしじまに響いた。

俺が気が付いたと知ったら彼女はどんな顔をするだろうか?
彼女の驚く姿が自然と浮かび、俺は知らずうちに頬が緩んだ。
ポケットからハンカチを取り出すと、それを丁寧に包み胸に仕舞う。
危険な場所から、彼女を早く逃がさなければ。





「お嬢さん…」
上のフロアに辿り着き、待っていろといった場所に彼女の影は見えず。
まさか手の者が他にも存在したのだろうかと不安に襲われる。
目を離すべきではなかったか、そんな後悔が頭を霞め俺は思わず大きな声で呼ぶ。


「お嬢さん、 …江藤っ!」
コーナーを曲がり、うずくまり自身を抱えている彼女を見つける。
あるいは怪我でもしたのかと俺は慌てて側に駆け寄った。

「どうした、江藤?」
俺の言葉に腕から顔を上げた彼女の頬は涙に濡れていた。
美しいドレスも今は闇のような黒いジャケットの下に隠れ、髪は相変わらず乱れたままだ。
しかし、涙に濡れ俺を見上げる瞳は黒曜石の様に輝き、こんな時なのに美しい、そう思った。
と、同時に胸に飛び込んできた彼女。

「真壁…さん」
一言俺の名前だけを呟き、しがみ付く姿はまるで子供のようで。
身に受け止めた軽く小さな身体は確かに幼さをも感じさせるけれど、それとはまた違う感覚が俺を襲う。

子供、警護の対象、……否、違う。
俺は…仕事だから彼女を守るためにここに居る、のではなくて。
彼女を守りたいと思ったからここに居るのだ、俺自身の意志で。

貴賎なく人を対等に見る公平な眼差し

理不尽な暴力に媚びずに対峙する勇気と小さな身で救おうとする健気さ

か弱く腕の中で泣く無防備さは純粋に庇護欲を掻き立てられる、が、その芯はどこまでも強く

何より、その向けられた優しさと笑顔とがいつの間にか自分の心の奥に住み着いて

“彼女の全てを守ってみせる”

今まで誰にも抱いたことのないこの気持を持て余しながらも再び固く心に誓うと、
俺は震える彼女をそっと抱きしめた。



「ごめんなさいっ、急に」
暫くそうしていただろうか、自分の状態、俺に抱きつく格好に気付き、
真っ赤になりながら慌てて身を離そうとする彼女とふっと視線が合う。
その瞳は依然滲んだ涙で潤んではいたものの、確かな光を取り戻していた。

「真壁さんがいなくなったら、急に不安になっちゃって…」
「悪かった…心配かけて」
「でもっ、もう大丈夫です」
「じゃあ、行くか」
「はい」
俺の言葉にしっかりと頷き再び歩き始めた彼女の手からは、もう震えは感じられなかった。


「このフロアも…バンケットルーム? どうして、ここに?」
彼女が不思議に思うのも無理はない、上のフロアに登ってきた行動の意味も。

警備に際してこの別棟の見取り図を目にしていた俺は、
パーティーに使用されたバンケットルームのバックヤードがとても狭いことに気がついていた。
今日の、あの集まりで供された程度の食事や飲み物は充分に賄える広さではあったが、
もっと大規模な催しの際にはその上の階の、この奥に在るメイン厨房から下ろされるに違いない。
人は乗るはずのない、厨房用のリフトで。
さき程下の階でそのリフトの電源だけが活きている事、…即ち、犯人が遮断した電源回路とは別の回路で
運動していることを俺は確認していた。
ということは、このメイン厨房に運び込まれる食材用のリフト電源も別回路である可能性は高い。
そしてそれは下とを繋ぐさっきのリフトよりも更に耐荷重量があるはずだ、
そう女一人の重さなら耐えうるくらいの、…そして直に地上と繋がっている。
お嬢様にはあんまりなエレベーターだが、今はこれしか地上へと下りる手立ては無い。


「こっちだ」
説明する時間を省き、ただ手を取り行動を促すだけなのに、彼女は驚くほど素直だ。
それは俺に対しての信頼の表れなのだろうか。
既に、幾つかのミスを犯した俺なのに。


彼女の、全幅の信頼を寄せる様な行動に逡巡する俺の耳に微かな音が入り込む。
彼女の奏でるヒールの音と足音の立たない靴を履いている自分、とすると、あの靴音は…残党か?
ずしずしと己の力を誇示するかのように地面を蹴りつける足音が遠くで響いている。
徹底的なとどめを刺しておかなかった自分の甘さを悔やんだ。






もしこのフロアに人がいれば、…そう上手くはいかなかったらしい。
恐らく本日の仕入れが済んだ後、この階は使われることはなかったのだろう。
電源が落とされたフロアは、まるでホテルの一部だと思えないほどひっそりと静まり返っている。
その中を頭に叩き込んだ地図で描いたルート通りに、最短で厨房へと足を踏み入れる。
一時足音は遠ざかったかのように思えた、或いは仲間を呼びに行ったのか。
あのエレベーターの穴を見れば、上のフロアに俺たちが移動したことは明瞭だ。
いつまでも逃げ通せるものではない、いずれにせよ、急がなければ。



階下を繋ぐリフトと太い柱を挟んで反対側に、一回り大きな、上下に開く扉が見えた。
素早く周囲に視線を走らせれば、電源が入ってることを示すランプが暗闇に、希望の灯りのように煌いていた。

「何とか、ツキが残っていたようだな」
じっと見上げる視線を受けて俺は口を開いた。

「あんたはこれで逃げるんだ。 乗り心地満点とはいかないが、これで一階まで行けるはずだ」
「真壁…さんは? 一緒に降りるんでしょう?」
「生憎と、これの耐荷重量が…な。 あんた一人なら充分可能だろう」
「そんな! 出来ません、一人で逃げるなんて」
「いいか、言い争っている時間は無いんだ、二人で乗るのは無理なんだ」
「だったら真壁さんが…」
「それじゃ意味が無いだろう」
「じゃあ、他に考えましょう! 嫌です、真壁さんと二人で出られなきゃ…」
「他に、良い方法でもあるのか?」
被せる様に言葉を浴びせると、彼女は口を噤んだ。

ここにきて助かる手立ての前で、急に聞き分けなく、駄々を捏ねる彼女。
瞳には先ほど俺の胸に飛び込んで来た時と同じ様に、いつの間にか涙が溢れている。
俺を信頼し、そして危険な状況下で尚自分の身を心配してくれる彼女を愛おしいと思う。
だからこそ、彼女だけでも早く安全な場所へと願う。


「それに…俺はあんたのボディガードだ。 お前を守るのが仕事だ」
「でも…」
「下に降りて、そして助けを呼んでくれ。 …お前だけが頼みだ」
縋るような瞳で見上げる視線を真正面から見据え、宥め、諭すように言い含める。
「頼みだ」の一言にぐっと息を飲み込むと、小さな両の手を胸の前できゅっと握り締め、
漸く彼女はこくんと頷いた。



乗用に施されていないリフトは小柄な彼女でも身を竦めなければならず。
その間に傍にあったインタフォンで外部との連絡が取れるかと期待したが、
耳に当てた受話器からはツーッと無機質な機械音が流れるだけだった。

「そんなに長い時間は掛からないはずだ。 乗り心地は悪いが辛抱してくれ」
外から閉じ始めた扉を小さな手が遮る。

「でも、…その前に一つだけ聞かせて」
「…?」
「さっきの『俺の傍を離れるなって』、…あれはどういう意味ですか? 仕事だから? それとも…」
俺を見上げる真摯な瞳に胸の内を見透かされたようで、慌てて言葉を紡ごうとして…形にならない。
ぶつかり合った二つの眼差しを静寂だけが包み込んだ。

「わたしが、江藤コンツェルン総裁の娘だから? こうして危険を冒してまで守ってくれるのは? 
笑ってくれたのは? 抱きしめてくれた腕の強さは? それは、全て『仕事』だからですか?
わたし、バカだから。 状況も考えずに言ってるってことも分かってます、でも…」

「…真壁さんが……好きなんです」

俺もだと、思わず零れそうになった言葉を慌てて飲み込む。
彼女は惑わされているだけ、この状況下で助けに来た俺をヒーローだと勘違いしているだけ。
目が覚めれば、恐怖が過ぎ去れば、それがただのまやかしだと気付くだろう。
そう自らが否定すればする程、きりりと胸が痛む。
自分が今この場にいて、彼女を護るべき立場にいることが、こんな状況でも嬉しくて。

例えば彼女の服を気にしたり、イヤリングを気にしたり。
プロから見れば失格としか思えない行動の数々も、彼女の笑顔のためだけのこと。
いや、彼女の笑顔を見たい、単に自分の我侭でしかない。

くるくると色々な表情(かお)を見せる姿に魅せられ、彼女だからこそ、守りたかったのだと。
あの時、無意識に零れた言葉は、…仕事だから、ではなく…一人の男の本心。

けれど、今はただ一刻も早く、彼女を安全な場所へと逃がしたい。
彼女が言葉を望んでいることも百も承知で、そして自分の本音も押し隠して、何とか言葉を搾り出す。

「…今は、それどころじゃないだろう」
ひたむきな視線から逃げた俺に、今度は彼女が言葉を被せる。

「…ズルイ。 どうして気持を隠すんですか。 わたしが嫌いならハッキリ言って。
ううん、ここから逃げて、わたしの代わりに真壁さんだけでも…」
「バカッ!」
「バカです。 でも恐いよりももっと心が苦しいんです。 あなたの気持が分からないままの今の状況が…」
俺を見上げる彼女はこのフロアに上がってくる際にあちこちが煤で汚れ、髪はほつれ、
手には痛ましい程の赤黒い痕も残っている。
が、今まで見たどんな姿よりも美しく、愛おしく思えた。


思うより先に手は彼女の腕を掴み、片手は細い腰を抱き、
…そして口唇は桜貝のように色付いた薄く柔らかな口唇を塞いでいた。

何が起こったのか分からぬ様子で身体を強張らせたまま口付けを受けるその儚い身を、きつく抱き締める。
言葉に出来ぬ分、その想いの丈を触れた口唇に込めて。

「…っふ」
「後で…言うよ。 …江藤」

呆然として全身の力が抜けた様な彼女の身体をもう一度リフトへ押し込む。
そして、口を開きかけたまま座り込んだ姿を瞼に残し、扉を外から下ろした。


どうか、無事に。

らしくなく、閉まった扉に向かい眼を閉じ小さく祈る。
口唇に残った淡い感触を指でそっとなぞると、先程から口中に広がっていた血生臭さが、
彼女が俺に移した温もりですっと退いて行くような気がした。


遠くから近付く足音を、再び研ぎ澄ました耳が捉える。
すぅっと一つ息を吐き眼を開けると、俺は足音のする方向へ走り出した。








敵の目を厨房から逸らすように足音に近付き、わざと気配を気付かせるとフロアの反対側へと走り出す。
ズボンの後ろベルトに挿んだ銃を取り出し、残数を確認する。
既に使われていた一発、先程、天井に穴を開けるために使った四発、残り、一発。
鈍い音を響かせリボルバーを戻すと、安全装置を外す。
無事に下に着くまでは何としても敵を引き付けなければ。


手近にあった扉を足で蹴り上げ大きく内に開く。
がらんとしたホールの奥に詰まれた椅子やテーブルが大きな影を作っていた。
そのまま、中を一瞥しただけで、再び足音を殺して廊下を駆ける。
中に飛び込んだと思わせられるかは分からない、が、少しでも気を逸らせることが出来たなら。
追ってくる足音が二つになり、思わず舌打ちをする。
コーナーを曲がり息を潜めて先程の扉に近付く足音を窺う。
現れた影の一つが開いたままの扉の先を窺う様に慎重な動きになった所を、狙いを定め引き鉄を引く。
影は一瞬硬直し、そして地を這うような呻き声を残してその場に崩れ落ちた。
すかさず後ろの影が俺の方に銃を向け、壁に無数の穴を穿つ。
弾に砕かれたコンクリートの欠片が頬を掠め、俺は向きを変えると頭を低くして先を急ぐ。
生温かい感触が頬をなぞった指先に残り、眉を顰める。


残る敵はあと一人、そして弾は…ゼロ。



相手の気配を窺いながら、息を潜め次の曲がり角に身を隠す。
突き当たりは行き止まりで逃げ場が無いのを知っているのか、
足音はゆっくりとまるでいたぶる様に近付いてくる。

「隠れんぼは終わりにしないかね」
器械じみた声に嘲笑を滲ませて、声は次第に俺へと近くなる。
煙を吐き出しながら床を転がる物体を視界の端に捉え、蹴り上げようとした俺の目の前に敵が銃を構え立ちはだかった。

「さぁ、手に持っているモノを捨ててもらおうか」
「俺の武器はそれだけじゃねぇぜ」
「ああ、見事だったよ、さっきは。 だからこそ、早く止めを刺したいんだ」
さっきのような反旗は期待できるはずも無いし、目の前の敵は一部の隙も見せない。
一度喰らった攻撃に対して本能的に警戒心が強まっているのだろう。
しかし、尚も俺は空の銃を向けたまま男と対峙し続けた。

「そんなに任務に忠実なのか。 …そういえば見当たらぬな、娘が」
「あいつはただのお嬢さんじゃないからな」
ギラリと光らせ睨みつけた眼に、不敵に嘲り笑う敵が映る。

「ほう、お前が大事なのはあの娘か。 娘はどうした?」
「答える義理は無いね」
言葉を発するや否や、銃を握ったままの右肩に強い衝撃を受ける。

神経を断ち切られるような鋭い痛みと、ずたずたに筋肉と筋肉を手で引き裂くような痛みが肩を包み、
見る間にシャツの色を変え始めた血は、指の先まで滴り落ち床に染みを作った。
硝煙の上がった銃を依然構えながら近付く相手に、俺はにやりと微笑みながらその場に片膝をつく。

そうだ、それでいい、もっと近付いて来い。
あんたを引き付けるのが、彼女を護るのが、…俺の役目だ。

「戯言を、たかが娘一人に今更何が出来る」

しかし、綿密な計画が少しづつ破綻していった過程に、
最初の登場の時と違い明らかに感情の表れた声が男の口から漏れる。
それを隠すかのように、男は銃の照準をピタリと俺の頭に合わせた。

「これで、ジ・エンドだ」
「それは、こっちの台詞だ」
弾が発射されるのをスローモーションのように本能で捉える。
パンチを避ける要領で反らせた頭の直ぐ脇を熱い鉛弾が通り過ぎる。
うろたえた表情で一瞬の隙を見せた男の右頬に、最後の力を振り絞り奮った右ストレートがのめり込む。
後ろに体勢を崩しながら無闇に放った敵の弾が今度は左腿を貫き、
俺は膝を折りながらも相手の懐から銃を叩き落とした。

拾った銃を握る右手がぬるりと滑り、左手に持ち替えて引き鉄を引く。
ぐおぅと喉に何かが詰まったような声を残し、男は動かなくなった。


これだけ時間を稼げば、無事彼女は下へと辿り着くだろう。
…即ち、彼女を守れたということ。


  “蘭…世”


呼んだこともない、下の名前を呟き、俺の意識はそこで一度ぷっつりと途絶えた。





ポケットに仕舞い込んだまま渡しそびれたイヤリングが耳元でちゃりんと鳴った気がした。








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背景 Abundant Shine 様








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