Mission Completed





ほんの少し前まで、わたしは確かに恐怖で震えていた。


影の様にどこへでもわたしに付いて来る執事、自分の意志とは関係無しに押し付けられる「候補者」達、
自由の無い行動に不満を洩らし、もっと身軽になりたいと外の世界へ憧れた。

そして不意に訪れた危険。
江藤コンツェルンの娘ということが世間的にどういう意味を持つのか、本当の恐ろしさを身を以って知った。
拘束されていた手首には、まだ指の形すらくっきりと分かるほど赤黒く痕が残っている。
…でも、その先、わたしの小さな手を包むのは、…温かく、大きな掌。



サングラスを外している為に、わたしを背に庇い辺りを窺う眼つきの鋭さは隠せないけれど、
でも、その瞳が優しく微笑むことを知ってしまったから。
わたしは、こんな状況でも安心していられる、真壁さんが居るだけで。
それに、さっき真壁さんの口から漏れた言葉。

「俺の傍を離れるな」

…その言葉は、仕事だからですか、それとも……。
一先ず危機は去ったとはいえ、まだ予断を許さぬこんなに切羽詰った状況なのに、
問い質してみたくなるのは、それがわたしにとって大事なことだから。


「油断するな」
「…ハイ」
心の内で反芻し、思わずやけているわたしの顔を訝しげに見て、一言。
言葉は相変わらず素っ気無いけれど、それすら包まれている手の温もりで優しい響きに感じてしまう。
素直に答えたわたしに片方だけ眉を上げて小さく息を吐くと、真壁さんはまた前方へと注意を払った。
そうだ、まず、ここから脱出しなければ。 …でもどうやって、外とは連絡が取れないのかしら?
真壁さんは敵の気配を窺いながら廊下を進む。
突き当りを折れれば、この先は、…エレベーターホール?

「少し待っていろ」
一声を残し、離れた手に寂しさを感じている間にわたしの耳に届いたのは、何かがぶつかる様な音、
重たいものが崩れ落ちる音、それに伴い床へと転がった金属の鈍い音、…そして訪れた静寂。

「こっちだ」
真壁さんが呼ぶ声に角を曲がったところで、思わずぎょっとして足が竦んだ。
倒れているのは既に息の無い警備員と、…きっと、今、真壁さんが倒したであろう敵。
叫び声らしきものは、一声たりとも聞こえてこなかったのに。
口の端から流れる赤黒い血が、スクリーンで見る鮮血よりも、わたしにこれが現実なのだと訴える。
そして、この様子に顔色一つ変えぬ真壁さんも、またこの世界に身を置いてきた人なのだと。

「…っ」
思わず零れそうになる叫び声を押し殺し、エレベーターの前に立つ真壁さんの傍へと駆け寄る。
わたし達を乗せてきた箱は役目を終えたかのように、今は暗い腹を曝け出してそこに静かに佇んでいた。
エレベーターはキーを入れなければ稼動しないはず、そして、この状況から見てキーどころか、
もっと根本的な、良く解らないけど主電源とかそんなものが敵の手に堕ちている気がする。
一体どうするつもりなのかと不思議に思うわたしの表情を読み取ったのか、真壁さんが口を開いた。

「警備用の無線も、俺が預けた携帯も、通信機能は全てパァだ。
ここから上へ上がる、つまり、俺達は自力で外へ出るしかないんだ。 
バックヤードの従業員用エレベーターも、非常階段もここと同様封鎖されている。
天井に上がればワンフロアならさほどの距離も無いからな、あんたでも上れる筈だ」


そう言い様に真壁さんは敵から奪った銃を天井に向けて発砲し、わたしは慌てて自分の耳を塞いだ。
天井の右隅に四つの小さな穴が開くと、真壁さんはエレベーター内の細い幅の手摺に器用によじ登り、
そのうちの二つの穴と穴の間の天井をぐっと押し上げた。
その直後わたしは信じられない光景を見た。
鈍い亀裂音がして現れた黒い空間の縁に手を掛け、まるで逆上がり懸垂でもするように、
でももっと勢いをつけて身体を折り曲げると、真壁さんは両足で天井を突き破ったのだ。
ぽっかりと広がった暗闇に真壁さんのしなやかな身体が吸い込まれるように消えた。
真壁さんがその穴から身を乗り出し、手を差し出すまで、わたしは呆気にとられていた。

「あんたも、そこに足を掛けて、…聞いてるか?」
「は、はいっ」
お嬢様としては随分とはしたない姿だけれど、慣れないヒールで何とか手摺に足を掛け、
恐る恐る重心を手摺に乗せた足へと移動する。
ぐらりと大きく身体が揺れ、倒れると思った瞬間、わたしの右腕はしっかりと真壁さんに掴まれていた。

「意外とやるな」
ニヤリと笑うともう片方の手を取り、わたしの体重なんてまるで気にならないような様子で引っ張り上げた。


気が付けば、目の前に広がっているのは、一度も目にしたことの無い、
通常の昇降の際には箱を支えるに必要であろう色々なケーブルや組まれた鉄骨の数々だった。
動かない今では、魂を抜かれた化け物の内部のようで、単なる無機質な形状はより不気味さを増して
わたし達を腹に飲み込もうとしているかの様だっだ。

「お嬢様にしちゃ、上等」
「な、何言ってるんですかっ、真壁さんこそ、凄…い」
「俺のは、職業上必要な能力だ」
思わず身震いを覚えたわたしの緊張感を解すかのように叩かれた軽口、
先ほどの鮮やかな身のこなしを思い出し、それに引き換え自分のあられもない姿を思い出し、
わたしは真壁さんに反論と賞賛の入り混じった様な声を洩らす。
はっと我に返ったような表情になり、一転冷たいトーンで語られる短い言葉。
わたしを喜ばせるかと思えば直ぐにつれない言葉と、どこか無理に距離を置こうとする態度に、
切なくなって見つめ返した視線を遮るかのように、真壁さんはふっと眼を伏せた。

「ここにいろ、扉を開けてくる」
真壁さんはケーブルだらけの鉄骨の足場を器用によじ登り、外扉を抉じ開けた。
細く射し込む上階からの明かりが、まるで希望の光の様に見えた。
そしてその光を背に戻ってくる真壁さんは、ここに至るまでの間にあちこち汚れていたけど、
まるで昔絵本で見た王子様のようにわたしの眼に映った。


「きゃあ! …何をっ」
前言撤回! いきなりスカートを捲られてぎゅっと裾を丸め込まれ、思わず出してしまった大声。
身を引いて、つい出そうになった手の上から大きなジャケットが掛けられた。
今までずっと着ていた真壁さんの温もりがまだ内に篭っていて、
まるで抱き締められたみたいで、続くはずの声は喉の途中で音を失った。

「汚れるからな。 …まぁ、今更のような気もするが」
「こんな時に、そんなことっ…」
「気に入ってるんだろう、そのドレス」
確かにここに来る車中でそんな話をしたことを思い出したけれど、
気の無い素振りでいたから、きっとそんなこと真壁さんにはどうでもいいことなんだろうって思った。
なのに…どうして、こんな時にそんなわたしの言葉を覚えてくれていて、思い出してくれて、
あまつさえ自分のジャケットをわたしに掛けてくれるなんて。
さり気無い真壁さんの優しさにきゅんとした胸を隠すように、わたしはジャケットを前でそっと合わせた。




紡ぎだす言葉を上手く見つけられなくて無口になったわたしは、真壁さんの差し出す手に無言で掴まる。
このままこうして居られたら、なんて馬鹿げた考えが頭を過ぎる。
一つ上のフロアに着くと、そこはまるでさっきの騒乱が嘘のように静まり返っていた。

「どうやらいけるかもな」
「じゃあ、助かるのね?」
「まだ、確証は無い……が」
張り詰めていた緊張感の中での安堵感が滲む口調、真壁さんがそう思うのなら、きっと平気。
真壁さんに対する完全な信頼感が、わたしの口を不必要に滑らせる。

「真壁さんが大丈夫と思うのなら、きっと大丈夫ですっ!」
びっくりしたように眼を見開いた後、じっとわたしを見つめる真壁さんは口唇の端を歪ませて口を開いた。

「あんたはホントに……面白いな」
「面白い」、褒め言葉としては何だか相応しくないように思えるその言葉に
ちょっと顔を顰めて見せたわたしに、真壁さんはくっと笑いを噛み殺すと優しい眼差しを落とした。
…あ、また、優しい瞳。
真っ直ぐな視線がわたしの顔を捉え、そしてすっと逸らした視線が不意に鋭く光った。

「こっちへ」
エレベーターや周りから死角となる目に付かない窪みへと、真壁さんは引き寄せた。
そっとわたしの頬に手を当てると、次いで耳の脇でくしゃくしゃになってしまった髪を掻きあげた。


身体中にぞくりと震えが走ってしまったのは、
触れた手の温もりが感じさせる温度と眼差しの鋭さが放つ温度とが余りにも違ったから。
それは冷めた眼差しだったからじゃなくて、もっと熱の篭った眼差しだったから。
その瞳に見つめられて、今までに感じたことの無い熱いものが背を駆け上がる感覚に、
わたしは声も無くその場にへたりこんでしまった。

「…ちょっと待ってろ、直ぐに戻る」
そう言い残すとわたしの返事を待たずに、真壁さんは昇ってきた暗闇へと身体を躍らせた。





何だったんだろう、今のあの感じは。
ジャケットを羽織った上から自分の身体を抱き締める。

頬がジンジンと熱い、まるで熱があるみたいに。
同じように胸の真ん中から、まるでティーバックがお湯に染み出してゆくみたいに、
身体中の隅々まで温かいものがじんわりと広がってゆく。
心臓は頬と同じように身体の中心でドクドクと早鐘のように鳴り響いている。


何でも手に入るお父さまが言ってた、一つだけ手に入らないモノ。
お父さまもお母さまもわたしにプレゼント出来ないモノ。

 お伽噺の王子さまとお姫さま 
   ふたりの間にある気持ち。
     そんな気持ちになることの出来る相手ー
 
ハチミツみたいに甘い呪文   スキナヒトー

わたしの胸に、身体中に広がるこんな気持をもたらした人が、スキナヒト― が、真壁さんなのだと。
わたしははっきりと自分の気持を自覚した。


僅かにジャケットに残る真壁さんの香りに包まれて。
外にまで聞こえてしまいそうな程煩い音を立てる真ん中にうずくまって、
わたしは必死にその音を鎮めようとした。




直ぐに戻る、後から考えれば真壁さんが言った通り、本当にそれはちょっとの間だけだったのかもしれない。

なのに、真壁さんの姿が視界から消えて暫くすると、あれ程わたしを取り巻いていた熱は、
波が砂を攫うようにすっと引き、代わりに押し寄せたのはどうしようもない程の孤独感。
ついさっきまでドキドキが溢れんばかりだった口からは、かちかちと小さくも耳障りな音がし、
それが自分の歯が立てている音だと気が付いたのは、音を払おうと頭を振りしだいた時だけ途切れたからだ。
ジャケットの端からほんの少し覗く指先や、素肌が現れている爪先から急速に冷たさが忍び寄って来る。

冷たい、寒い、…それ以上にきゅっと心が痛い。
さっき感じたほんわりと温かい気持が湧き上がって来るのとは違う、
昔、忙しいお父さまやお母さまの居ない夜に恋しがって温もりを求めるような。
そう、欲しくても手の届かない悲しい心が叫び声をあげるような、そんな気持に包まれて。


直ぐに戻って来るって、真壁さんは言ったじゃない。
 ― 口だけで戻って来ないかもしれないよ。

真壁さんはそんな人じゃない、わたしを助けに来てくれたわ。
 ― けど誰だって自分の身が可愛いさ、お前だってそうだろう。

だって、わたしを守ってくれるって、傍を離れるなって言ってくれたわ。
 ― 金で雇われた身だろう、口ではどうとでも取り繕えるしね。

そんな、真壁さんはそんな人じゃないわ!
 ― そんな人じゃない? じゃあどんな人だい? 
 ― 彼は仕事だからお前のような小娘の傍にいるんだろう?

心の闇が次々に、そんな意地悪な言葉を否定するわたしへ言葉の礫を投げつけてくる。

違う、違う、違う…
真壁さんは、……わたしを…


初めて挨拶を交わした日の姿

苦笑いと言うには優し過ぎる笑顔を浮かべてハンカチを受け取った姿

わたしの手に付いた跡を、後悔とが入り混じった痛ましげな眼差しで見つめる姿

「俺の傍を離れるな」

黒い闇と幾つもの真壁さんの顔、そして耳の直ぐ側で零れ落ちた言葉がわたしの中で
ぐるぐると渦巻いては混ざり合い、弾けて飛び散る。

「まかべ…さ…ん」

あなたが居てくれれば、どんなことも出来そうな気がする。
けれどあなたがいなかったら…。
だから、早く戻って来て。


…わたしは、……あなたが好きなんです。


不安に押し潰されそうな胸を必死に庇うようにうずくまりながら、わたしは真壁さんの名前を繰り返し呟いていた。







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背景 Abundant Shine 様








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