INNOCENT MAID






今でもわたしは鮮明に思い出すことが出来る、初めて言葉を交わした時のことを。
自分の小さな手のひらを眺めながら、ひと時わたしは昔に帰る。



まだ慣れぬ仕事と館全体を覆いつくすような暗さに溜息を溢しつつ、
そこに根っからのおっちょこちょいぶりが加われば、ドジを踏まない方が不思議というもの。
気を付けていた筈の花器を取り落としてしまい下を覘けば、
生憎とそこには仕事から戻られたご主人様と、その横で顔を顰める老執事。


わたしと同じ年くらいでありながら幾つもの会社を束ねる企業の社長でもあるご主人様に、
お目にかかる機会はそれまで殆ど無かった。
頭を下げつつも、好奇心を抑えられず顔をチラチラ眺めるわたしに一言、
片付けておいてくれればいい、それだけがご主人様の口から洩れた言葉だった。
叱られるのは勿論嫌だけど、それよりも感情の篭らない声がとても気になった。
けれど、自分の壊してしまったものに声を掛けるわたしをご主人様は見ていたらしい。

“っく” “怪我をしないように気を付けろ”
咽の奥で笑いを堪えるような音と、思いがけずにわたしに落とされた一言。
自分の感情を表に出さない方、と同時に他人にも関心を持たない方。
必要以上のお喋りをしない人が多いお館の中でも群を抜いて無口で堅物、
と密かに噂されていることは知っていた。
だから、不意に落とされた人を思いやる言葉にわたしは呆然として。
そんな間にご主人様はさっさとご自分の部屋へ向かわれた。

思いがけずに見てしまった、ご主人様の笑った顔。
普段が無表情なんて信じられないくらい、優しい瞳が印象的だった。
それに被さるように聞こえた声もとても柔らかくて。


もしかしたら本当は優しい人なのかもしれない。
既に去っていってしまった方向を見ながら、わたしはぼんやりとそう思った。



翌朝、ご主人様の部屋のカーテンを開けるように言いつけられたわたしが目にしたのは、
キングサイズのベットの中央に眠る一人の男性。
勿論、それがご主人様だと認識はしていたけれど、その姿はまるで一幅の絵のようで。
柔らかいレース越しに射し込む朝の陽射しに照らされて浮き上がった整った顔立ち。
すっと通った鼻筋、シャープな弧を描く顎、切れ長の眉の下、
いつも前だけを見据える鋭く冷たい眼差しは、思いのほか長い睫毛の下に隠れて、
穏やかな表情を前髪がゆるやかに覆っていた。

そして仕事も忘れて思わず見惚れてしまったわたしは、
身じろぎをしたご主人様に驚き、耳元で大きな声を出してしまった。
少し掠れた声で気だるげに起き上がるご主人様はいつもの無表情を朝から身に纏って。
けれど、はだけた寝間着からチラリと見える胸元や顔にあてた大きな手と長い指はとても色っぽくて。
度重なる粗相に早々に逃げ出そうとしたわたしはふと思い出したのだ、昨夜掛けられた言葉を。
目の前にぎゅっと手を突き出して怪我の無いことを伝えたら、ちょっと眼を見開いて。
…その様子から昨日の言葉は気まぐれなんだと、さすがに疎いわたしでも気が付いたけれど。


優しい言葉と、あどけなくも艶かしい姿、ご主人様の二つの姿はしっかりとわたしの胸に焼き付いて。



ご主人様と多くの使用人のうちの一人、それだけで終わるはずだった関係は、
身の回りのお世話を承ったことによって大きく変わっていった。





細心の注意を払った…はずなのに日替わりでやらかしてしまう失敗の数々。
それらを手にご主人様の帰りを待つ、いつの間にかそんな光景が当たり前になりつつあった。
大概は構わぬ、その一言で終わり。
館の人が噂にする程の口数の少なさは確かに感じたものの、
わたしにはご主人様が自分の感情を露にすることを極端に恐れているような、
そのことによって出来る人との交わりを避けるような、そんな気がした。
どうしてそんなに自分を殺しているのですか。
聞いても答えてくれる筈の無い問いかけを、別の形でわたしは知ることになった。


ご主人様を取り囲む眼が厳しいものであるのも、お側に仕えて初めて分かったこと。
妾腹の息子を後継が無いばかりに受け入れねばならなかった一族の態度は厳しく。
お飾りとして使う程度の力量以上の実力と、容姿を備えていたご主人様に向けられる眼は冷たく。
それでも迂闊に口を挟むことの出来ない力を備えているのは、周囲も認めているようだった。
“この館にいらした時からあのような御気性でしたよ”、ご主人様についてしつこく尋ねるわたしに、
老執事はそう口にし話を切り上げた。
でも、じゃあ、ご主人様の本当の姿は?
ここにいらっしゃる前はどのような人だったんですか?
今度こそ答えてくれる人を失いながらも、わたしは密かに確信していた。
…それは、多分あの日の眼差しの中にわたしが見た…人。


“冷酷無比の切れ者、使えない者は容赦無く切り捨てる”、もっぱらの噂は館の外では通説らしい。
圧倒的な力でしか人を抑えられない、それは生身の人間(ひと)としてとても寂しいこと。
けれど、そうすることでしか、この館では生きてゆく術を持たなかったのだと思う。
自分を殺して、自分の力のみを頼みとして、人との交わりを尽く断ち切って。
そのまま独りで過ごせてしまうほど強い人などいない。                       
時折見せる、遠くを見たまま何かを思う眼差しは、常の頑強に見えるご主人様とは違い、
石一つで粉々に砕け散ってしまうような硝子の心臓を持った人のようにわたしには映った。

そんな噂に対し、わたしのミスに対しては驚くほど寛容だった。
外の出来事と比べれば取るに足らない過ち、そういってしまえばそれまでだけど、
相変わらず性懲りも無く失敗を繰り返し、頭を下げるわたしに苦笑混じりに見せる眼差しは、
僅かに、けれど確かにあの日と同じ色を帯びているような気がした。



だからたしは少しだけ期待してしまったのだ。
もしかしたら、自分はご主人様の本当の姿に触れることが出来るかもしれないと。
それはご主人様にとっては一番触れられたくない場所だと分かっていたはずなのに、
向けられる眼差しの優しさに、近しい人になれるかもと、いつしかわたしは愚かな錯覚を起こしていた。


毎晩の懺悔も、本当はご主人様の顔を見たいが為の本音と摩り替えていただけのこと。
自分の犯した罪はいつか自分に必ず戻ってくる。
ご主人様はいつもと同じ様にわたしの待つ理由を尋ねただけなのに。

わたしから声を掛けるのはおかしいことですか?
使用人の立場であなたを心配してはいけませんか?

わたしは気持ちの伝わらないもどかしさの不満を当の相手にぶつけてしまったのだ。
そんなわたしに辛うじて返された声は微かに掠れていて。

きゅっ

胸の真ん中で軋んだ音がした。
わたしは、触れてはいけないところに触れてしまったのだと漸く気が付いたのは、
酷く辛そうな表情(かお)のご主人様を見てしまってから。

何を期待してたんだろうの? 
優しい眼差し?、それとも優しい言葉?
…違う、それは全部わたしが勝手に期待したこと。


わたしは口唇を噛み締めて声を掛けようとする影を遮り部屋を後にした。
これ以上単なる独り善がりを思いしらされては、ご主人様の前で涙を零しまいそうだったから。
…いつの間にか、こんなにもご主人様を好きになってたんだと今更のように自分の気持ちに気付きながら。



最初から好きになってはいけない人のはずだった。
立場も違う、つりあうはずもない。
だからこれ以上好きになってはいけない。

未来に光明なんて一筋も無い。
けれど、手のひらから砂が零れ落ちるように止められない気持ちは、床へと降り積もって形作ってゆく。
…決して完成しない、砂上の城を。


王子様と召使いはどこまでいっても使う者と使われる者。
たとえ城が完成したとしても、そこで共に暮らすことは叶わぬ…夢。

だから、眠りに落ちて見る夢の中でだけ、わたしはご主人様の隣に立つ。
微笑みあって、他愛ない言葉を交し合って、腕に抱かれて。
現実に叶うはずのない夢は切なさを増し、起き上がれば濡れた枕に大きな息を零す。


それでも、あんな素振りを見せたわたしなのに
ご主人様は今までと変わらずにわたしの他愛の無い話を疎まずに聞いてくれるから、
弱いわたしは微かな期待を捨てきることも出来なくて。



あなたを好きでいてもいいですか?

あなたは少しはわたしを好いていてくれるのですか?

わたしは、…ずっとあなたの傍にいてもいいですか?



それは決して叶うことのない夢物語…のはずだった。




ぼんやりと眺めていた外の闇に、小さな明りが二つ。
館へと近付いてくる揺れる光は、ご主人様を乗せた車のヘッドライト。
カーテンをそっと下ろし、わたしはもう一度自分の手のひらを眺める。
静かに椅子から立ち上がると玄関ホールへと向かった。

















「あの…」
「何だ?」
唯一、目の前の一人を除いて誰も立ち入らない俺の部屋は、この館の謂わば陸の孤島か。
仕事から戻り戦闘服である背広を、緩めてはいるものの未だその身に纏い、
己の本心を薄いレンズ(眼鏡)で隠したままの男と、それを出迎えた仕事熱心なメイド。
助けを求めても誰にも聞こえない、そして誰にも邪魔されない。


習慣になってしまった彼女の俺の出迎えも、最初のうちはともかく今では不審に思う者も少なくなった。
例えその手に何かが載せられていないとしても。
部屋に入り放り投げたジャケットは放物線を描き彼女が立つ横のソファに落ちる。
軽く机に腰を預けると俺は彼女に向き直り、両の腕を組んだ。
背広の描いた見えない放物線を眼で追っていた彼女が慌てて俺に向き直る。

「ご主人様…」
鼻で笑うようなふざけた俺の館での呼び名も、彼女の口から洩れれば
これからの時間を彩るアペリティフのように俺の中に心地よく染みてゆく。

何かを訴える目はいつもの活き活きとした輝く瞳とは違い、どこか儚げで。
このまま、消えてしまわぬように強く、きつく抱き締めてしまいたい衝動に駆られ、
慌てて自分の感情を押しとどめると椅子の方へと周り、厚く硬いクッションに身を預けた。
椅子の肘かけに腕を預け、もう片方は肘をつき、重たく鈍く痛む頭を支えて。
目の前でおずおずと俺を眺める彼女にじっくりと視線を這わす。

「取りあえず、お茶を貰おうか」
「ハイ」
本来の用事を言いつけられた彼女はほっとしたように支度を始める。
その後背で薄く笑いを浮かべる俺を見たなら、彼女は一体どんな態度を示すだろう。

「どちらに」
「ああ、こっちへ持ってきてくれ」
さりげなさを装って大きな窓を背に置かれた机のこちら側へ、己の方へと彼女を手繰り寄せて。
従順で疑うことを知らない彼女はまた一つ自ら退路を断つ。

「ありがとう」
やっと少しは出るようになった感情を表す俺の言葉に、
あの日のような鮮やかな笑顔に優しさを織り込んで、彼女は柔らかく微笑んだ。

「他に御ようは」
「未だに…お前は分かっていないようだな」
ぐしゃりと前髪を乱し、一つ息をつくと俺は机の上に眼鏡を投げ出した。
仮面を被るのは、今夜はもう終わり。 
表面上は丁寧な言葉遣いも、表情を隠すものも全て取り払う、彼女の前では。
そして、俺は俺に戻る。


「帰ってきたんだが?」
砕けた口調に彼女の瞳の中にもう一つ別の感情が表れる。
柔らかい俺の口調に誘われるように近付く彼女の細い手首を掴んで、己の膝の上に彼女を横抱きにする。

「あ…」
小さく洩れた声、抗うような素振りをみせ動く手足は俺が細い腰に腕を回すと力をなくした。
代わりにすぐ近くからじっと俺を見つめる、いつものつぶらな瞳で。

未だメイド姿の彼女の髪に手を入れて、一つに纏めている中心を俺の指が妖しく動く。
その動きに音もなく肩に降りかかる、漆黒の闇を思わせる長い黒髪。
あるいはそれは、固執することを諦めていた自身の開放を象徴する化身なのだろうか。
闇を纏った江藤は腕の中で俺の変化を感じ、メイドからひとりの女性へと眼差しを変える。


「お帰りなさい…ませ」
洩れる言葉は同じでも、間近で囁くように洩れるそれは、どこか甘い響きを宿して。
もっと声を聞きたくて、俺はわざと大きな動作で足を組んだ。

「きゃっ!」
小さな声を上げて突然に安定をなくした身体は、当然俺の胸の中。
辛うじて俺の肩に手をあてて身体を支えた彼女は、手も貸さずに眺めていた俺に恨みがましい視線を送る。

「いじ…わ…る」
「はっ! 第一声がそれとは…寂しいな、恋人の言葉としては」
俺が放った“恋人”の言葉に頬を一瞬に赤く染める腕の中の彼の人。

「それとも違うのか?」
耳元で囁く言葉は自分に言い聞かせているのか、それとも彼女の反応を楽しむためか。
あるいはその両方か。

「…俺は、誰だ?」
答えにくい問いに口篭ったまま眼で分かってと訴える仕草は、俺の内を滾らせる媚薬にしかならない。


「ただいま、…蘭世」
甘くねっとりと耳元で囁いた名前にぴくりと身を竦めると彼女はその細い腕を俺の首に回す。
柔らかい髪と芳しい香りに包まれる中で、一番欲しい言葉は漸く彼女の口から洩れる。

「お帰りなさい…しゅん」
二人が発した互いの名前で、主人とメイドはただの恋人同士になる。







薄っすらと意識を起こせば、傍らにはシーツの海で一夜を過ごした…恋人。


今はまだ密やかに。
館の誰にも知られぬように開かれたパンドラの箱の中身は静かに眠っている。




俺の手に残ったのは、蘭世という名の…希望。







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― UPの際のコメント ―

さとくー

バトラー真壁くんを書いたなら、やっぱりメイド蘭世ちゃんよね、
ここは一つ、俺様御曹司(大笑)真壁くんとメイド蘭世ちゃん、スーツと眼鏡、メイド服は必須でv
…そんなノリで始めたはずなのに、何故にここまで長く&暗くなるのか自分。(涙)

かるさんのピンポイント且つ好みのど真ん中を打ち抜いてくださった素敵な一枚に、
改めて絵師様の素晴らしさを感じさせていただいた作品のような気がします。

 +++++     +++++     +++++     +++++    

かる

そそりますね?♪孤独の王子を優しく包もうとする蘭世ちゃんの優しさにキュンときて、
その優しさに少しずつ心の殻をほどかれていく王子もまたいいです♪
そして王子のSっぷりが読んでてニヤニヤしっぱなしでした♪
さとくーさんの作品はどんなシーンを伝えたいのかという事がはっきりわかるので、
絵描きとしては本当に描きやすかったです♪
もちろん私の萌えポイントにもばっちりはまっていたので、描くのもとっても楽しかった♪
自分で絵を描いていると、結構ワンパターンになっちゃって、なかなか冒険する事ができないのですが、
こうやって、コラボさせていただけると、いろんなイラストに挑戦出来るので、また是非コラボさせてください♪



















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