INNOCENT MAID






「お帰りなさいませ」
車のドアを外側から開き、出迎えるのはこの家と共に歳を取ってきたような、老執事。
「ああ」
“ただいま”などという言葉はとうに忘れた。
恭しく俺に頭を下げる彼も露ほどの期待もしていないだろう。


荘厳な建物のドアが、また別の手によって内側から厳かに開かれ、足を踏み入れる。
何度足を踏み入れても、自分の住処だと言うのに押し寄せる威圧感、そして圧迫感は耐え難くて。
それは、階段の踊り場から俺を見下ろす、数枚の肖像画の眼差しのせいだろうか。
忌々しげに思いながら窮屈な襟元を乱暴に緩め、一つ息を吐く。
出迎える者は皆俺を認めると一様に深く頭を下げるから、
俺はこの館に仕える人の顔をまともに見たことがない。
いや、そんなことは俺にも、彼らにも必要が無いことだ。
自分に与えられた仕事だけをそつなくこなせさせすればいい。
彼らも、俺も、動きを定められた人形なのだ。

「旦那様、お食事は?」
「済ませてきた」
「左様でございますか、それでは明日は…」
横から能面を被った様な秘書が黒革の手帳を開き、俺の代わりに答える。
「明日は、8時よりOXホールディング会長との面会がございまので、7時にお迎えに上がります。
では私はこれで」
「…だそうだ」
「畏まりました」
これでお終い、どんな未来の予定も黒子のように張り付く秘書に聞けば分かること。




「きゃーっ!」
ガチャンと何か陶器が壊れる音に続き、屋敷の静寂に不釣合いな声が突如ホールに響き、
目の前の執事は僅かに顔を顰めた。
「何だ?」
「す、すいません〜」
テテテと駆け寄って来て、目の前で慌ててしゃちほこばって頭を下げたのは、
俺と殆ど歳の変わらないように見える一人のメイドだった。

「つい手が滑って、大切な花器を落としてしまいました、申し訳ありませんっ!」
床に着くかと思う程頭を垂れているのだが、その様子は他の使用人とはちょっと違って。
神妙に頭は下げているものの、大きな瞳は俺の様を密かに窺い、
割れた花器と俺を交互にちらちらと見遣っている。

「全く、あなたと言う人は…」
執事が感情を露にするのは珍しい、そんな俺の訝しげな視線を感じたのか
一つ咳払いをし、おもむろに口を開いた。
「申し訳ありません、新しいメイドなのですが、粗忽でして…」
一緒に俺に頭を下げた執事を見て、メイドは慌てて一度上げかけた頭を再び床へと向けた。
「…まあいい、片付けておいてくれ」

部屋へと向かう俺の後ろで大きな箒と塵取りを手にした女、…名前など聞いていない、
が片付け始める気配がした。
「ごめんねぇ、痛かったねぇ、可哀想に」
…あれは、もしかして壊れた(且つ自分の壊した)物に声を掛けているのか?
思わず振り返った俺と女の目が合った。

「え、えへっ」
俺に聞かれたことが分ったのか恥ずかしそうに身を竦めた姿が、
この館の醸し出す雰囲気と酷く懸け離れて滑稽に映り、俺はくっと咽の奥で笑うと一言告げた。
「怪我をしないように気を付けろ」
一言掛けたのは、…ただの気まぐれのはずだった。





自分の部屋に戻り、背広を脱ぐとソファへ投げ出す。
首を締め付けるようなネクタイも少し乱暴に剥ぎ取ると、背広の上に投げた。
シャツの前釦を二つ程外し、同様に袖口も外すとうっとおしい袖をたくし上げた。
そうして館に相応しい、決して俺の趣味ではないアンティーク調の椅子に腰を落とし、
始めて今日一日の仕事を終え家に帰って来たと実感する。

…家だと?
俺は自嘲する、この館は俺の家なんかじゃない。
見ず知らずの弁護士だと名乗る男が、ある日突然手土産に持ってきたものだ。
それまでの、生まれ育った家はあの玄関ホールの何分の一かの、狭い安普請のアパートだった。
“どこかの愛人の息子”、それくらいは幼い俺の耳にも嫌でも入る。
周りの目と耳は口さがなく幼い俺を、俺を育てるために働くお袋を打ちのめした。
それでも、良かったのだ、俺に生を与えたのは誰かと問い質すこともせず、
ただおふくろの愛情だけを受けて。
父親を知らずにいること、それはかつておふくろが愛した相手を、
別れた相手を恨まずにいられることでもあったから。


「xx氏が亡くなられまして」
数ヶ月前に突然おふくろが逝き、心の整理もつかぬうちに俺の前に現れた弁護士は言った。
“あなたを後継に”
それは俺すらが耳にしたことのある、大きな会社を幾つも束ねる企業の名だった。

行くあてもない、何の力を持たない幼かった俺と、どうしても後継に恵まれなかった一族。
内心の葛藤はともかく、表面上は利害の一致した提案を一族は受け容れ、
迎え入れた彼らは取りあえず表面を繕うだけの教育を俺に施し、学を強要した。
或いは遺伝だったのか、彼らの望むお飾りとしてだけのトップにしては、俺は多少優れてはいたらしい。
後を継いだ経営は順調だったし、そこそこ人並み以上だったこの容姿は充分に手助けとなった。
こうして、昔の自分では到底手にすることの出来ないポストと、金と、この家が与えられた。

代わりに失ったのは、…自分という存在と感情と名の付くもの、全て。
ただ指図されたもののみを淡々とこなす機械になって。
それは、女に対しても同じことが言えた。
いつか、上辺の見てくれと、地位と、利害と、俺自身ではなく一族のトップとしてつりあう誰かが
宛がわれるのだろう、拒否する権利など与えられないで。
それでもいい、何も期待をしなければ、失うものもない。
もし後継を望まれたとしても、機械のようにこなし、相手を違わずに生産さえすれば、
…そいつは俺のような目にあわなくてすむ。


何度も繰り返し辿ってきた同じ結論に今夜も達し、俺は手近にあった本を床に投げつけた。
…これでいいんだ、考えるな、何も。





「お早うございます」
寝酒を煽って疼き痛む頭にきんと響く声がして、俺は眉を顰めた。
「うるさい」
「え? …どうかなさいました?」
「うるさい、朝は弱いと言ってあっただろう!」
不機嫌な声を上げてベッドに起き上がれば、俺を覗きこんだのは、昨日のメイド。
昨日も思ったが、こいつは俺の顔をじろじろと眺める数少ない
…むしろたった一人かもしれない、この館で。

「申し訳ありません、伺っていなかったので」
慌てて下げた頭が俺の肩に勢い良くぶつかった。
「った〜! じゃなくて、すいません!」
「いいから、大きな声を出さないでくれ」
こめかみを指で押さえながら、俺は必要なことだけを口に出す。
不必要なことは言わない、それもこの屋敷へ来て覚えたことだった。
「本当に申し訳ありませんでした。直ぐに退散いたします。 そ、それと…」
まだ何か言葉を続けようとするメイドに、身体全体を覆う気だるさに視線だけを遣る。

「怪我、しませんでした、…ほら」
ぐっと俺の目の前に突きつられた手は驚くほど小さく、細い指だった。
そして、まるで見る側が染め抜かれるような白い手のひら。
圧迫感を感じるはずのその距離も、思わず惹きこまれて疎ましさを感じない程に。

…ああ、そう言えば、そのような戯言も。
気まぐれに口から零れた言葉など頭からすっぽりと抜け落ちていた。
それを、このメイドは覚えていてわざわざ俺に報告したのか、手のひらを突き出してまで。

「良かった…な」
「はいっ!」
そう言ったものの後が続かないまま黙り込んだ俺に、
メイドはまるで射し込む朝日のような…いや、それよりも眩しい夏の日差しのような、
鮮やかな笑顔を俺の胸に焼き付けて部屋を出て行った。
身体に纏わりついていた倦怠感や頭痛は、気付かない内に収まっていた。




朝食代わりのコーヒーを飲みながら、新聞数紙に目を通すのも決まりきった日課だ。
その側で何かを言いたげな執事に気付き、俺は目で先を促す。
「その、身の回りのお世話をするものが、急に暇を取りまして」
身の回りといっても俺の着た服の洗濯、いない間の部屋の掃除、ごくたまに頼む茶の用意。
殆ど顔を合わすことのなかった前任者を、俺は思い出すことすら出来なかった。
「誰でもいい」
「ですが…」
「なら、あの女でいい。 昨日、ホールの片付けをした」
「江藤…でございますか?」
「江藤と言うのか、あの女は? 俺のいない間に済ませることだ、粗忽そうだが問題はないだろう」
問題はないではなく誰でもいい、それが本音だ、俺に係る人物のことなど。
昨夜、今朝と、素直に表された感情を向けられたことによって不思議な、
…言葉に出来ない何かを俺にもたらしたメイドに世話託そうと思ったのは、
ただの気まぐれだった。
そう、昨日、声を掛けた時のように。




気まぐれは、どこかで歪み始めた輪を戻そうとする俺の潜在意識だったのか。
それとも、更に捻じれて表と裏が繋がったメビウスの輪を形づくる起因に過ぎなかったのか。
今となっては分からない。

ただ、俺と彼女が切れない鎖で繋がれるきっかけになったのは、事実だった。




結果として、俺とメ、…江藤は前任者のような間柄にはならなかった。
三角の黒焦げが付いたシャツ、飲み残したコーヒーの染みが付いた書類、割れたティーカップ。
俺を出迎える彼女の手には、ほぼ日替わりで何かしら載せられていた。
最初のうちはそれらをさし出し頭を下げる江藤に構わぬと相手にしなかった俺だが、
それでも律儀に江藤はそれを続けた、まるで儀式のように。
色々なものを腕に俺の帰りを待つ姿は、犯した罪の判決を待つ咎人というよりも、
おもちゃを携えてご主人の帰りを待ち侘びるペットの姿に似ていて。
俺は苦笑を溢さずにはいられなかった。

「今日は何だ」
何か粗相をしたことを前提として問いかける俺に、その日の江藤は少し口を尖らせた。
「違います、ただ…お休みなさいとお伝えしたくて、それからお疲れさまと」
江藤が感情を素直に表す性質だと、接する時間が増えてから分かりかけてはいたものの、
俺自身に向けられた、感情を表す、そして篭った言葉を突然掛けられ、思わず言葉を失う。
俺を見上げる瞳は潤み、胸の前で組まれた両手は僅かに震えていた。
それは単なる「主人」に対して、ではなくもっと特別な感情が篭められているような気がしたのは
俺の考え過ぎだろうか。
数字が並んだデータのようにはするりと解析出来ない込み上がってきた感情に対し、俺は酷く狼狽した。
「…ああ」
何とかそれだけ答えた俺に、江藤は不満そうな表情を浮かべて。
「お休みなさいませ」
無意識のうちに手を伸ばしかけていた俺に、江藤は硬い言葉で放つと一礼し、扉の向こうに足早に消えた。
手を伸ばしたところで何を語ろうというのか。
感情を無くして、言葉を少なにして日常を送るうちに、
一人のメイドすら自分の意にすることが出来なくなってしまった己の無力さに、口唇を噛み締めた。


けれど、硬く封印し心の奥底にしまいこんだパンドラの箱を開く鍵を持っていたのは、やはり江藤だった。


一度開けてしまったなら、そこから飛び出してしまうのは、今の全て。
俺の手に残るのは果たして希望か絶望か。
今の自分が失ったものを、もう一度この手に取り戻せるのか。
それとも、結局は何も得ることが出来ずに、醜く足掻いた傷跡だけを眺めながら、
再びこの館で、今度こそマリオネットのように一生を過ごすのか。


あの日、掛けられた言葉に何一つ返せなかった俺に対して、以降も江藤は前と変わらぬ態度で接した。
庭に花が咲いた、珍しい小鳥が木に止まっていた、あるいは館の中で自分が見聞きした些細な出来事、
数々の失敗、かしましいだけなはずのお喋りは、江藤の口から零れると、
不思議と疲れた身体に心地好く染み入り、俺に安らぎを与えた。

無意識に、しかし確実に、幾重にも掛けたはずの鎖を、
江藤は無力なはずのその小さな真白い手で一つづつするりと解いてゆく。
溢れんばかりの笑顔に、労わりの篭った何気ない言葉に、さりげなく置かれた窓辺の花に、
あるいは、深夜の帰宅を気遣うように机に置かれた夜食と小さなメモに。
気付けば江藤の存在がいつでも俺を包んでいる、そんな日常になっていた。


この館に踏み入れた時に硬く嵌めたはずの仮面の下で、息苦しいと訴える俺がいる。
もう一度、深く息をしてこの胸いっぱいに、新しい空気を取り込んでみたい。
…出来れば、おふくろに抱かれて安堵したあの頃のような気持ちを俺に与えてくれる江藤の傍らで。




かちり



…遠くで外れた鍵の音が小さく、けれど確かに耳を打った。







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