You're my only waitress





「てめぇ、何してんだよ!」


ここが店の中だとか、周りの目を気にするだとか、そんなことは全て俺の中から吹き飛んで。
語気荒く叫ぶと、江藤の手首を掴んだ男の右手を掴み、常とは逆の方向に捻る。
ギリと嫌な音がしたが、それでも俺は力を緩めようとしなかった。

まさか、やっとの思いで決心して入った店で、突然こんな光景を眼にしようとは。
こんなことなら入り口で逡巡してる場合じゃなく、さっさと入って来るべきだった。
自分に対する怒りと後悔が、一層腕に力を篭もらせる。

「ひっ、ひいぃ、痛いっ!」
蛙の潰れたような声を上げて叫ぶ男を忌々しげに思いながら放すと、
男は大袈裟に腕をさすり、恨みがましい顔を俺に向けた。
その顔を逆に睨み返してやると、相手の顔は目に見えて分かるほど蒼くなった。
恐らく、相当恐い顔をしているのだろう、その自覚はあったが改める気も、更々無かった。

「客だからって、触って言い訳がねえだろうがっ!」
恫喝にも似た一言を放ち、噛み付くように胸ぐらの辺りを掴みどんと後ろに突くと、
男は無様な格好で床に尻餅をついた。

「…ま、かべ…くん?」
掴まれた手首をもう片方の手で握り、突然の登場に唖然としたままだった江藤の口から
俺の名前が零れ落ちた。


俺は素早く上から下まで一瞥し、敢えて江藤の視線を逸らすと切り出した。

「お騒がせしてすいませんでした。 …ほら、来いよっ!」
尻餅をついたまま唖然としている男の首根っこを捕まえ何とか立たせると、
俺は店の中に一礼し、男を従えて店外へと足を向けた。


捕まえた男はそのまま警備員に引渡す、俺を恐れたそいつは抵抗も見せずに引き摺られてゆく。
その前にもう一度睨みつけたのは優しすぎる警告だ、 次は、無い。
何事が起こったかと興味深そうな視線を投げかけていた客もそれぞれの話へと戻って行き、
店はまた元の穏やかさを取り戻したようだった。
そんな気配を外から確認した俺は、けばけばしいとしか映らない店を後にする。




手近にあったコーヒーショップに飛び込み、俺はコーヒーを啜る。
全国チェーンで展開されるその店の味はどこでも同じだと決まっているはずなのに、
いつもより苦味だけが際立っているように感じられた。 …多分、それは俺の感情のせい。
数口付けただけのコーヒーを奥に追い遣り、自分の口唇をギリとかみ締めた。


…江藤、怯えた瞳をしていたな。


江藤がバイトをする、それは彼女の口からではなく、日野の奴から耳にしたことだ。
頼みを断れない性格につけ込んで、江藤の友人がかなり強引に迫ったと言う。
バイトをすることについて話さなかったのは、
何でも俺に話そうとする普段の江藤からしたら疑問には感じたが、
俺自身も先だってのバイトについては話さなかったと言う負い目もあったため、
無理に聞き出そうとはしなかった。


逆に俺に言えないバイトをするのかと妙な怒りも多少は湧いたが、
江藤がそう怪しい(と言うのもおかしいが)バイトを自ら選ぶとは思わなかったし。
その点についてはすっかり想定の範囲外で。

日野の、制服がかなり刺激的であること、それを目当てに来る奴も中には居ることなど
バイト先に関する一般的な知識、…俺にとって気懸かりな情報を耳打ちされて、店にやって来たのだった。
流石に、一人で入る勇気が中々無く、結果、江藤をあんな目に合わせてしまったのだが。

くそっ!


やり切れない思いでテーブルに打ち付けた拳が立てた音に、隣の男性がビクリと肩を竦めた。





闇の中に次々に人口の光が灯り始める光景を遠くに眺めながら、
俺はある殺風景なドアの前の道の手摺に腰を落とした。
ドアからは区切りの良い時間の度に、一人、数人と人影が現れ、
その誰もが俺を珍しそうに、或いは胡散臭げに眺める。
向けられるそんな視線を、俺は悉く無視して。
ドアが開く度に視線を向けた俺は、出て来た影が江藤でないとさっさと視線を外したからか、
不審者として通報されることは無かったが、逆にむっつりと黙り込んで扉を睨みつける姿は、
不信感よりも恐怖を与えているようだった。

「お疲れ様でした」
小さな声がして、俺は顔を上げる。 …聞き間違えることなど無い、江藤の声だ。

「真壁くん、…どうしてここに?」
「待ってた。 …行くぞ」
ここに俺がいるのが信じられない、そんな表情で俺を見上げる江藤を顎で促し、
取りあえず人目のあるその場を後にする。
お互い無言なまま、近くにあった小さな公園まで歩を進め、足を止めた。


「あの…さっきは、…ありがとう」
「別に」
礼を言われることをしたしたつもりは無い。 …ただ、自分の感情に従っただけ。
それきり黙りこんだ俺に、何度も口をぱくぱくさせ言い淀んでいた江藤がやっと切り出す。

「怒ってる…よね。 内緒でバイトしてたんだもん」
「別に…」
バイトを黙っていたことも、普通に考えれば俺が腹を立てる理由にはなり得ない。
勿論、打ち明けられなかったことに割り切れない気持ちは多少はあったけれど。
上手く自分の感情を持て余せない俺は、微妙な感情の機微を話さなければいけないようなこんな時は
何時にも増して言葉少なになり、それが更に苛立ちを増長させる。

「じゃあ、何で?」
怒っている理由が分からないとでも言いたげな江藤に腹が立ち、
俺の言葉はどんどん尖り、簡単になっていく。

「ったく、何であんなこと」
「やっぱり怒ってるんじゃない、わたしが真壁くんに内緒でバイトしたってこと!
 真壁くんだってやってたじゃない! 
わたしだってちゃんと出来るよ? わたし…そんなに頼りない?」
最初は激しかった口調も語尾にいくほど震え、今にも目尻から涙が零れそうだ。
が、ここで涙に逃げるのは違うと感じているのか、江藤は袖でぐいと目尻を拭った。
涙混じりに呟く一言は冬の木枯らしのように鋭く、俺の心に突き刺さった。


…違うんだ。
江藤にバイトが出来ないなんて思わない。
その性格は俺には決して無いものだし、接客業なら俺なんかよりそつ無くこなすだろう。

もっと違う、根本的なもの。
“何も出来ない”、そう江藤が自分で思ってしまうように行動を縛ってるのは俺なんだ。
たとえ俺がいなくても、江藤は江藤のままでいられると思う。
けれど、望むのは、俺がいなくては何も出来ないでいて欲しいと。
そして、江藤が出来ることは、誰かに差し出す手は、俺のためだけに使って欲しい。
それは一人のちっぽけな男の、大事な女への単なる執着でしかない。
どこまでも偏った危うさを孕んでいるのを分かっていながら、
いつも望むのは、俺の中にだけ閉じ込めておきたい、ただそれだけ。
その想いを上手く形に、言葉に出来なくて、俺は苛立つ。


「違うんだ…」
何とかそれだけを搾り出した俺は江藤を胸に仕舞いこむ。
「…分かれよ」
それは読心能力の無い江藤にとって意味の無い言葉だ。

「言葉にしてくれなくちゃ、…分かんないよ、真壁くん」
「そうだよ…な」
抱きしめた俺のジャンパーに手を回し、江藤が呟いた。

誤魔化している訳じゃあない、伝えることが出来るのなら。
けれど、音にならない言葉の代わりに俺は抱く腕に力を篭める。
せめて、この温もりから想いが伝わるように…と。


きつく抱きしめた江藤はいつもの江藤だ。
俺の知らない格好で、俺以外の奴に笑顔を見せてた江藤じゃない。
違う、あれも江藤なんだ。 
けれど、一つ我侭を溢すのなら…

「ったく…何であんな格好なんだよ」
髪を上げたままの首筋に自分の口唇を押し当てながら漏らした、それは本音。

…なぁ江藤、お前は笑うか?
無愛想な面の下で、本当は情けないくらいに嫉妬に狂う俺を。
そして、俺が怖れているのはお前がいなければ、何も出来なくなる自分の姿を認めることだと言ったら。





江藤がどう受け止めたのかは分からない、俺の言葉はやっぱり余りにも少ないから。
でも声に滲んだ拗ねた気配が伝わったのか、江藤はくすりと小さな笑いを溢した。

「心配した?」
「…に決まってんだろ、しかもあんな場面に出くわしちゃ」
「あのね、でもこのバイトだけはちゃんとやり遂げたいの。
わたしを信頼してくれた彼女のためにも、自分のためにも。
自分は何にも出来ないって思ってた、真壁くんにどんどん置いてかれちゃう気がして。
ほんのちょっとのことかもしれないけど、自信にしたいんだ、
真壁くんを想う気持ちの、…真壁くんの傍にいてもいいんだっていう…」
嬉しそうに綻ばせた表情から一転、何かを決意した時にだけ見せる強い眼差しで江藤は言葉を紡いだ。

俺の傍にいられる自信。
…俺の傍に居てくれているお前の存在の大きさそれなら、もうとっくに分かってる、俺は。
けど、それを知らない江藤にとっては、大事なことなんだよな。


「分かったよ」
ほっとしたような表情の江藤をもう一度強く抱きしめる。

「でもな、お前、シフト教えろ。 …その時は終わったら待ってろ、店で」
「え?」
「危ねぇし、心配なんだよ、…それとも俺に足繁く店に通う男になって欲しいのか?」
本音を織り交ぜて、けれど冗談めかして言う俺に江藤は戸惑う。

「え、でもそれじゃあ、…真壁くん誤解されちゃうよ?」
「誤解じゃねぇだろ、…本当のことだろ。 …俺はお前の何だ?」



一際花が咲き綻ぶように江藤は俺の腕の中で微笑み、それから少し恥ずかしそうに口を開いた。


「こい…びと?」
江藤の口から零れた「恋人」の響きは、たっぷりと砂糖を入れたコーヒーのように甘く、俺の心へと届く。


「ああ…」




短い肯定に目を丸くした江藤は俺の中でゆっくりと瞼を閉じ、彼女の恋人はその口唇を目指す。







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