無自覚の微罪、自覚の大罪





キィと軋んだ音が背後でしたが、特に気にも留めていなかった。

「あ、真壁くんみっけ」
今しがた考えていた人物の声が突然に降ってきて俺は驚く。
「江藤…」
「ここに居たんだ。 へへ、ちょっと探しちゃった。 …いい?」
腕の中に倒れこんだ時とは違う、いつもの穏やかな笑顔に僅かにいたずらっぽさを覗かせて、
俺の隣を指し示し、わざわざ伺いを立てる。

「っつーか、お前具合は?」
「え、平気平気、もう大丈夫。 昼間はご迷惑をお掛けしました」
江藤は律儀に礼を述べ、おまけにペコリと小さく頭まで下げた。
礼を言われるようなつもりも無いし、ただ身体の具合が心配な俺はついぶっきら棒な口調になってしまう。
しかも、目の前の江藤は半袖に深い襟ぐりのカットソーという涼し気な出で立ちだ。
いい?ともう一度眼差しで訊ねる江藤の為に、俺は身体をずらし少し空間を空けてやる。
が、強さと冷たさを増す夜を渡る風に、隣に座ろうとした江藤の細い手首を掴んだ。

「ぶり返すぞ」
Tシャツの上に羽織っていた長袖のシャツを脱ぎ、江藤に差し出す。
「え、いいってば、大丈夫だって」
手を身体の前でぶんぶん振りながら、江藤は俺の差し出したシャツを固辞する。
「いいから着ろ、…じゃなきゃ、中に帰すぞ」
…わざわざ俺を捜し、見つけてくれた江藤を帰したくも、帰すつもりも無いのに。
が、江藤の身体を心配するのも、また確かな本心で。
思いは同じだったらしく、江藤はおずおずとシャツを受け取ると素直に羽織った。
大き過ぎるシャツは指の先を残してすっぽりと江藤の細い身体を覆う。
シャツの前釦を留めてやる間中、かちんこちんに身体を固まらせ、息まで止める姿と、
衣服を取り払うことはあっても、逆の動作をすることは中々無いななどとふと思ってしまったせいで、
江藤の醸し出す変な緊張を感じた俺までもが妙に意識してしまい、無言のまま動作を進める。
普段から不器用な指が、更にぎこちなく緩慢な動きでシャツの前を上ってゆく。





「ありがと。 …ふふ、あったかい」
たかが綿のシャツ一枚、薄衣を纏っただけなのに、本当に温かいという表情で
シャツに隠れた掌を自分の頬に摺り寄せ江藤は微笑んだ。
その笑顔だけで、心を鷲掴みにされ、独り占めしたい気持に俺はいつも陥る。
現にその笑顔は俺以外のかなり大多数の野郎共にも有効だ。
だから、幸せな気持ちになる分、振り撒かれる(江藤にとってはそれがごく普通の感情表現なのだろうが)
愛想に、心が些少な俺はいつも小さな苛立ちも覚えてしまう。
…ったく、人の気も知らないで。

「えへへー、ご心配おかけしました。」
礼を言いながらも、ふにゃり蕩けそうな笑顔なのは、先程の場面を思い出したからだろう。

「もう平気なのかよ」
「うん、さっき熱も測ったけどすっかり下がったし」
「マジで知恵熱だったんじゃねーのか、楽しみにし過ぎて?」
「ひど〜い、真壁くんまでそう言うんだ」
「誰かに言われたのか?」
「…みんなに」
ぷっと頬を膨らませて不満そうに呟いた江藤の姿から、
本当は年下の友人達から妹のように頭まで撫でられあやされている姿がリアルに想像されて、
俺は思わずつぼに嵌ってしまい、くつくつと笑い続けた。

「ほ、ホントに違うんだから」
「分かったって、暴れるとまた熱出すぞ。」
横を向き、尚も笑い続ける俺に対し、きーきーと本気で喚く江藤の姿がさらに可笑しくて。
…コイツといるとホントに飽きねぇし、目が離せねぇ。
聞いたら江藤が益々怒り出しそうなことを思いつつ、目尻に溢れてしまった水分を、俺はシャツの肩で拭った。


もう、とでも言うように殊更大袈裟に眉を顰めていた江藤も、
俺がいつまでも肩を震わせている姿につられたのか、いつしか一緒に笑い出した。






「あ、あのね…」
剥き出しになった腕にひんやりと感じる風も、傍に江藤がいるだけでふっと凪いだ気になるから不思議だ。
会話を交わさなくても同じ時と場をを共有しているだけで、ただそれだけでいい。
沈黙が心地良く感じて遠くに目を遣っていた俺は、おずおずと切り出した江藤に視線を移した。
開きかけた口はその視線を感じたのか再び口篭り、上目がちに俺を窺う江藤に眼で先を促す。

「昼間の…聞かれたの。 真壁くんが運んでくれたでしょ。 それで…付き合ってるのって」
他の眼が気にならないと言えば嘘になるが、あの時、目の前で倒れた江藤だけが気になった俺は
大してそれがどんな反響を起こすかも気にならず、抱えて運んだ。

元々、特に隠している訳でもない、ただ、絶対的に言葉と素振りが足りないだけのこと。
その『絶対的』なせいで、俺と江藤は同じ部の部員とマネージャーの関係か、
若しくは仲の良いクラスメイトぐらいにしか他人に見られないでいることも分かっていた。
だから、もしかしたら、江藤の具合の悪さにかこつけて、自分と江藤との関係を、
遠まわしな方法で暗に周囲に知らしめたいだけだったのかもしれない。
そんな気持を隠して、自分の発言に対する俺の表情を窺う江藤を逆に見返す。


「あ、あのねっ、大丈夫よ。 ただ側にいたから受け止めてもらったって皆には説明したし、
そもそも言っても信じてもらえないっていうか…」
続いた言葉に眉を顰めた俺に、江藤は慌てて言葉を繋ぐ。
…俺の想いとは全く逆のベクトルに。


あの時、たまたま側にいたから受け止めたんじゃない。
ずっと追っていた顔色が優れずに、江藤のことが気になっていたから、…だ。
没個性の象徴のような制服の群れの中で、唯一無二に俺が探し出せるのは他の誰でもない江藤だからだ。
だからもっと自信を持って、俺と自らの関係は確かなものなのだと思って欲しい。
…心の中では既に俺はそう思っているのだから。
同時に、自覚もしている。
そう思っていても言葉にしなければ、相手に伝わらないことも。
いつまでも江藤からの想いを享受するだけでは、自分から行動せずに受け手にまわっているだけでは、
そのうちに愛想を着かされるのでは。
そんな懼れをいつも胸に抱えているくせに、染み付いてしまった不器用を直す術は未だに見つけられずにいる。


たとえばこんな時、江藤がそう言うのは、いつもの俺の態度からすれば当然のリアクションだろう。
けれど、我侭な俺は自分からは感情を素直に表せないくせに、
江藤から距離を置かれてしまうような態度を取られると途端に不機嫌で不安になる。
俺が江藤と特別な関係だと周りに思われるのは、お前にとって迷惑なことか?
…多分、答えは決まってる。
なのに卑怯な俺は不機嫌そうな声で不満を洩らし、江藤の口から俺の、江藤自身も望む言葉を欲しがる。

「迷惑だったか」
「そ、そんなことないっ、絶対。 むしろ…嬉しい…けど」
案の定、間髪を入れずに答える江藤、弱気な語尾は俺の言葉が足りないせいだ。
素直に、「お前のことしか目に入らない」と告げればいい。
このまま無言を重ねていったならば、やっと手に入れた、
…むしろ飛び込んで来てくれた、今では手放すことなど出来ない幸せが、
この手から零れ落ちていってしまうかもしれないのに。
なのに、この期に及んでも口の筋肉は強張り、意思を持ってしまったかのように動かない。


どこまでも情けない自分に、決して江藤には聞こえないように一つ溜息を吐き、
辛うじて動いた右手で真横に見える頭をぐしぐしと掻き乱すように撫でる。



(そう思っていいの?)
おずおずと俺を見上げるどこまでも控えめな態度が逆に癪に触る。
行動で分かれとは我ながら無茶だと思うし、そう思うこと自体腹立たしい。
いつも大きな愛で俺を包んでくれる江藤に、どれ程自分は甘えているのかと思う。

「そういうの、言いたがらないでしょ?」
言いたがらない…ではなく言えないだけのこと。
けれど態度で示すだけは限界がある。
江藤に騒ぐ奴らを牽制するのも、奴らを見て自分の胸にどす黒く渦巻く気持ちを抑えるのも。
誰の手にも触れさせない、誰の目にも映さない、いっそこの手の中に深く閉じ込めてしまいたい。
一種危うい危険を孕んだ気持ちはこれ程に己の中に溢れてるのに。




「触れて回る必要はねぇけど…隠してるつもりもねぇよ」
こんな言い方しか出来ない自分に嫌気がさしながら吐き出すように闇に溶かした言葉に、
江藤は眼を丸くしてみせる。
「何だよ?」
「真壁くんがそんなこと言うなんて。」

今更初めて聞くような顔するな。
いや、確かに言葉にのせるのは初めてかもしれない。
けれど、ずっと抱き続けている俺の偽らざる本心だ。
お前との関係を隠すつもりも、これっぽっちもない。
煩いのは確かに面倒だが、それすら江藤が自分のものだという証拠になるのなら構わない、
そんな気持ちになっていた。
それ程までに最近江藤の周りは騒がしく、
どんなに想いをもらっていても安堵しきれない焦燥感が俺を襲っていた。



「お前は俺の何だ?」
ずるいと分かっていながら、江藤の口から言わせたかった。
俺を特別な人物だと認める証の言葉を。

口篭り、シャツをつまみ照れ臭そうにに、でも嬉しそうに江藤は俺を見て瞳を潤ませる。
そんな不確かな言葉でもこれ程安心を与えるとは。
裏を返せば、そんなにまで江藤を不安にさせていたのかと思うと情けなくなる。


がりがりと前髪を掻き毟った俺の腕に江藤がそっと手を伸ばしてきた。
細い腕はそのまま俺の素肌の腕に柔らかく巻きついた。
シャツ越しに伝わる、温かい温もり。

「熱を出したのに、真壁くんに心配掛けたのに…なんかとっても嬉しいな」
「…ばーか」


自分の発した声かと思うほど、言葉の中身とは裏腹に、それは甘く、闇に響いた。




そっと肩にかかる儚い重さと温もりに身を委ねる俺に、江藤はぽつりと呟いた。

「あのさ、何か二人っきりになるのって難しいね?
確かにクラスの子と居るのも楽しいんだけど、けど、いつもの方がもっと嬉しいって思うの。…贅沢だよね」
いつも、…たとえ短くも二人きりで時を過ごすこと。
旅行が始まってからずっと俺が抱いていたのと同じ気持で江藤もいたことが嬉しく、俺は素直に頷いていた。
「ああ、そうだな」
もう一度、びっくりした表情(かお)をして俺を見つめたが、
そのまま何も言わずに再び江藤は俺の腕に回した手に力を込めた。
…言葉は、要らなかった。





「そろそろ戻んないと点呼だな」
切り出した俺に名残惜しそうな眼差しで江藤が見つめる。
同じ気持だが、二人で規律違反を起こす訳にもいかない。
同じように観念したらしい江藤は小さく息を吐くと着ていたシャツを脱いだ。

「有難うね」
シャツを渡される細い腕を俺は無意識に掴んでいた。
「まか…?」
「ま、熱も下がったみてぇだし…あと数日は旅行を楽しめよ」
「うん? …うん」
俺の真意を測りかねた江藤は相槌を打ちながらも、不思議そうに俺を見る。
「そうすりゃあとの空いてる時間は…全部お前のもんだ」
「う…うん」
嬉しそうに微笑んだ江藤に、惹きこまれるように口唇を重ねた。
そうさ、いくらでも時間はあるんだ。
いくらでもある時間はお前と一緒に過ごしてゆくんだ。
その為なら魔界人が持つ永遠という果てしない時間も、有意義なもののような気がした。




「戻らないとね」
「ああ」
腕の中で江藤が呟く、立ち去り難いが点呼が迫ってるのも事実だ。
緩く腕を解くともう一度身体を引き寄せ、額に口唇を落とす。
冷たくしっとりとした、いつもと同じ温もりを直に口唇で確認し、ほっと息を吐く。

「ん、熱はないな、さっさと戻れ」
あたふためいている江藤を、そして赤くなった自分の顔を隠すため後ろを向かせ尻をポンと叩く。
ふわふわと雲を踏むような足取りで向かい、ドアを開けたところで同じく赤い顔のまま江藤が立ち止まった。


「真壁くん」


このひと時がまるで夢か幻かだったかとでも言うように。
江藤にしてみりゃ、俺の吐いた言葉の数々は滅多にない甘い言葉だったし、
それが本当に現実にもたらされたものなのか、確かなものが欲しかったのだろう。
…そんな響きが呼び掛けられた一言に込められていた。


「江藤…」

「なあに?」

「俺は、お前の…恋人のつもりだよ。 今度聞かれたらそう答えろ」

「…うん」

不思議と普段なら押し寄せるはずの照れも襲ってこなかった。
自分にも言い聞かせるように、静かに、穏やかに、紡がれた一言。





異郷の地で少しだけ素直になった二人を、仄かな月明かりが優しく照らし出していた。







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