無自覚の微罪、自覚の大罪





流行(はやり)の行先なら今では色々とあるのに。
ましてや名門学校、大事なお坊ちゃま、お嬢ちゃまに金を惜しむ親などそう居ないであろうから、
いっそ旅行先が海外でも何ら不思議は無さそうなのに。
むしろ海外なら金銭的理由を口実に(だけでなく、実際問題としてハードルに為りかねないのが辛い所だが)、
早々に不参加の決定を下しもするのだが。
なのに、何故か一番王道の京都が行先になるところが、
この学校らしいと言うかイマイチ分からねぇところと言うか。
手渡されたプリントを見て俺が机に突っ伏したのは、
もう初秋と言うにはまだ厳しい暑さが身を包んでいた日のことだった。



「京都だって〜、楽しみだね」
俺のアパートで一緒に夕飯を取り後片付けを終えた江藤は、
制服に着けていたモスグリーンのエプロンを外し腰を下ろすと、
畳に寝転がった俺が手にしていた修学旅行の栞を一緒に覗き込んでは素直に嬉しさを表した。

「はぁ、でもよ、今時京都ってのも渋過ぎねぇか?」
「うん、でもね、わたし旅行って中学の臨海学校以来だからそれでも楽しみ。
それまで家から殆んど出たことなかったから、あの時も色々有ったけどとても大事な思い出なの。
何しろ真壁くんから直接泳ぎを教えてもらったのよねぇ…」
昔を懐かしむような遠い目をして、江藤はアパートの薄汚れた壁を見遣った。

憎からず…くらいは思っていただろうが(でないとあの時の自分の行動に説明がつかない)、
それでも今以上に無愛想な態度で江藤に接した過去の俺に想いを馳せ、
思い出の海に一人潜りこんでは目を潤ませ始めた江藤が何だか癪に障って。
細い腕を引っ張ると寝転がったままの胸元に抱き込んだ。
今の俺はここにいると、充分にとは言えないが少なくともあの頃よりはお前の傍に…、そんな気持を籠めて。

「きゃっ、…真壁くん?」
小さな悲鳴を上げながら、江藤は俺の取った行動の真意を窺うように真っ直ぐな瞳で覗き込む。
けれど、言葉に出来ないのは俺にとっていつものこと。
この時も胸元から見上げる大きな瞳に軽口を叩き、自分の真意を隠しこんだ。

「そんなに興奮してると当日知恵熱でも出しそうだな」
「ひど〜い、そんなお子様じゃありません」
「そうか?」
「そうですっ!」
「証拠は?」
「証拠って…これでどうだ」
言葉の代わりに狭い室内に響く乾いた音、そう大きな音ではないのに、俺の耳には何故かひどく残った。
…不意打ちは卑怯過ぎるぜ。
大胆な行動に出たくせに、真っ赤に染まった耳を黒い髪の間から覗かせる江藤に、
その後主導権を奪い返してたっぷりと御礼をしたのは言うまでも無いが。





「聖ポーリア学園の生徒さんはこちらです」
どこから聞いたか(と言ってもその情報源は一つしかないはずだが)欠席だけはするなと、
オフクロにまで釘を刺されてはさすがにふける訳にもいかず、
その分、当然のことながらバイトの皺寄せはその前後に集中することとなり。
昼間の熱を孕んだままのアスファルトは涼しくなったはずの夜気に舞い、容赦なく体力を奪い、
特に親しく話すようなクラスメイトも無く(第一年下な故か、俺の性格か、
どこか壁一枚隔てたような態度で接せられる)、
レールを伝う規則的で小刻みな振動と三拍子揃った眠りを誘う要因に抗うこともせず。
車中はひたすら睡眠を貪った俺は、欠伸を噛み殺しながら、まだ霞みのかかった頭で古都の地へと降り立った。



ぞろぞろと同じ服を身に纏った集団がホームから改札へ向かい列を成す。
階段を降りる俺の先に江藤の長い髪が揺れていた。

いつの間にか、同じ制服の波の中でも、否、そうでなくても、
江藤を無意識に見つけ出す能力だけはどんどん成長を遂げたらしい。
体育の授業中に、校庭の中庭で談笑する友達の輪の中に、教室の移動中に、
視線を遣った先にいつも揺れている江藤の長い黒髪を見つけては、不思議と心が和いだ。
そんなことを日野に言ったら確実に揶揄されるに違いないし、、
江藤に至っては嬉しさで舞い上がり、新たな危険が発生しそうな気配すら窺える。
…そもそも、そんなこと、口が裂けても言えるはずもないのだが。


クラスメイトと楽しげに会話をしながら先を行く江藤の顔は、
修学旅行というイベントに興奮しているのか、普段よりも幾分血色が良さそうに、
…むしろ少し紅潮して見えるのは俺の気のせいだろうか。
ここ数日、立て込んだバイトのせいでアパートで過ごすことはおろか、
ろくに会話を交わすことも出来ずに今日を迎えてしまった。
久しぶりの江藤の横顔を良く確かめようと身を乗り出そうとしたところにまた一人、
女生徒が江藤に声を掛け輪に加わる。
江藤の屈託の無い性格は誰からも受け容れられてるんだろう。
そんな江藤を誇らしく思うような気持ちと、取り囲まれることによって視界が遮られ、
姿を追うことすらままならない状況に苛立つ気持ちが綯い交ぜになり、
足元の小石を蹴飛ばして停まっていたバスのステップに足を掛けた俺に、
バスガイドは引き攣った笑いを浮かべた。





古都とくれば寺参り、しかも観光地としてメジャーな寺ばかりか、由緒ある古刹だか知らないが、
名前も聞いたことのないような場所まで、行動の殆どは寺廻りで埋め尽くされ。
仏像の顔つきを一つ一つ説明されたって、どれもこれも同じに見えるのは俺だけじゃないはずだ。
講堂では一番後ろに場所を取り、坊さんの有難い説法は文字通り左から右へと聞き流す。
後ろ頭しか見えないこんな時でも江藤の姿を探そうとする自分に半ば呆れながら、
それでもストレートの長い髪を俺の視線はしっかりと捉えて。
少し俯き加減にしているせいか、髪に隠れて良く見えないけれど。
その横顔が幾分辛そうに見える気がして、俺は仏像の代わりにずっと江藤を追っていた。



長い説法から開放されて鴬張りの廊下を進み外へと向かう。
回廊のひんやりとした冷たさが痺れた足の裏に心地良い。
と、前方でぐらりと傾く影、そして動きに従ってしなやかに揺れる黒髪。
あ、と思うより先に身体が動いていた。

「蘭世っ!」
「江藤っ」
スローモーションのように上体を折って崩れ落ちる江藤に駆け寄り、
地面すれすれのところで何とか受け止めた細い身体が驚くほど、熱い。
「真壁…くん」
「おい、お前、熱があるのか?」
「…え…ううん」
消え入りそうな声と視線をはぐらかす仕草に、江藤に自覚があったのは確実だ。
「このバカッ! …何でもっと早く言わねぇんだ」
腕の中で小動物のようにびくんと身を竦めた動きは、細い指で握られた俺のシャツにも伝わる。
潤んだ瞳、紅潮した頬、少しだけ腫れぼったく見える口唇、
素肌の腕の中で確かに見たことのある江藤のそんな様子も、今は身体の不調を示す印でしかない。


体勢を崩したことで張り詰めていた気が緩んだのか、すっかり力の抜けてしまった足元は覚束なく、
何とか靴だけは履いたのを認めると、江藤を横向きに抱き上げた。

「ま、真壁くん、大丈夫だってば。 …み、みんな見てるし…」
「いいから大人しくしてろ」
びしりと強い口調で言うと、江藤は今一度びくりと身体を震わせた。
こんな状態なのに、まだ俺のことや人の視線ばかりを気にして。
そんなことはどうでもいい、気にすることすら誤った考え方だ。
そんな気持ちで、落ち着かせるように上体を支えた手でゆっくりと背を一往復させると、
漸く全身の力を抜き江藤は俺に身体を預けた。
この事態に驚いている他の奴らを尻目に、俺はバスへと脚を向けた。



結局ただの発熱らしいことと、バスでの移動の為江藤は見学はせずに車中で休み、
薬と少し休んだお陰か宿に着いた頃には随分と顔色も良くなっているようだった。
江藤の周りに常に誰かが居るために、それも遠くから窺うばかりで。
居たところで看病が出来るわけじゃないが、それでもこんな時に傍にいられないもどかしさが募る。
友人に抱えられるように部屋に入っていった後ろ姿を、俺はどうすることも出来ずに見送るだけだった。





学校とはまた違い、旅先での奇妙な開放感が付き纏うのか、
いつもは寄り付かないクラスメイトが俺にも接触を試みようとする。
定番の?気になる女子生徒の話題も、今の俺には苛立たしさを増長させるだけの話題で。
気まずい沈黙を作り出すのも、かと言って気を遣うのも本意ではない俺は、
部屋にいるのも場違いな気がして、よりむしろ自分が行き詰って、部屋を出て宿の中をうろつく。
無論、外出は認められてないが、それでも人気の少ないところと探すうちに屋上へと続く階段に突き当たった。


宿泊者用には作られていない殺風景な屋上の扉は、微かに軋んで高い音を闇に響かせた。
ひびの入ったコンクリの床を進み、錆びて剥がれかけた手摺りに腕を凭せ掛けて眼下に広がる景色を眺める。
遠くに光る無数の人々の生活している証が、闇に散りばめられた宝石のように輝きを放っていた。
市内から少し高台に位置する宿からの眺めは、ここがいつものアパートでないことを改めて俺に認識させる。
江藤の様子も気になったが、さすがに部屋を訪ねる訳にもいかない。
まぁ、見た限りでは随分と回復していたし、早めに休めば元々丈夫な奴だし、大丈夫だろう。



…ったく、なあ。
適当な出っ張りを手近に見つけ腰を下ろし、ついでに嘆息も暗い床に落とす。
先日アパートで俺の言葉にむきになっていた顔と、腕の中で苦しげに息を漏らしていた顔とが交互に浮かぶ。
傍にいれないもどかしさが、余計に鮮やかに江藤の表情を俺の中に浮き出たせる。


気が付けばいつも江藤のことを目で追い、考えている自分にふと苦笑する。
こんな俺を、中学の頃の、あの時の俺は想像出来ただろうか?
いつから江藤を特別な存在として意識しだしたのだろう。

何しろ自分の気持を素直に表す…認めるに至るまでに相当年月が掛かったのだから。
その期間が長すぎて、一体何時から好きだったのか、正直なところ正確な答えは自分でも出せないと思う。
突然学校に現れた転校生は、不良だった俺に恐れもなく近付いて、
非力な赤ん坊に生まれ変わって魔界に追われる俺をその小さな身体で守って、
2000年前の生まれ変わりだの、大きな時の流れに否応無く巻き込まれて、
全世界を手にしようとする冥王と対峙し、
気が付けばいつの間にか無くてはならない存在に俺の中で成長していた。
…もう、その問いの答えを出す必要も無かった。



帰ってからも詰められたバイトのことも、ボクシングのことも頭の片隅に追いやって、
もうすぐやってくる秋の気配を孕んだひんやりとした風に身体を預け、
眼下に広がる灯りをぼんやりと俺は眺めていた。





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