色を濃くしてゆく空を背に、わたしはアパートへの道を駆け足で進んでゆく。
いつもの差入れよりは早い時間、けれど秋の夕暮れは早くて。
どんどん短くなる陽にまるで追い立てられるようにわたしは急ぎ足になる。
家で真壁くんも交えて皆で囲むつもりだった夕食を急いで詰めた包みは、
右手に提げた紙袋の中でずるずると移動しては、バランスを取ろうとするわたしの足をふらつかせて。


“とにかく早く”それだけの思いで運んだ足を、真壁くんの部屋を見上げる位置で思わず止める。
明かりが洩れる周りの部屋の中で、取り残されたように彼の部屋だけが暗く闇に沈んでいたから。




“ほっといてくれっ!”

地下室で聞いた真壁くんの怒鳴り声が耳にこびり付いて離れない。
真壁くんが怒鳴る場面を見たことがない訳じゃあない。
周りを見ることの出来ないわたしは先走ったり、出しゃばってしまう事も多くて、
そんなわたしに注意を促すために溢された時だってある。
でも、いつだってその言葉の裏には真壁くんの優しさが含まれていた。

けれど、先刻の口調は、わたしがその先を続けることをきっぱりと拒んでいて。
思わず肩を竦めてしまったわたしの様子に、直ぐに取り成すような言葉は発せられたけれど、
拒んでいる背中は変わらなかった。

別れを告げられた時のように、決定的に、わたしの存在すら否定する真壁くんではなかったけれど、
その背は誰かに自分の内に踏み入れられることを拒むような、昔の、一方的に片想いだった頃の
彼の背をわたしに思い出させた。
…それは、きっと一人で赴いた魔界であった事と関係すること。



魔界へ向かう真壁くんを見送ったわたしに、おとうさんは誰に聞かせるでもなく呟いていた。
あの件が片付いてからもう数年が経ったのか、と。 
そして、先立ってごく身内で法要が営まれたこと。
それらを併せ考えれば、お后様が何らかの区切りをつけようとしてるのではないかと。

その一つとして、今日魔界へと真壁くんが向かったのだとしたら、
もしかしたらわたしがこうしてアパートへ向かっている事は間違いかもしれない。
先程の言葉通り、一人になりたい、なって何かを考えたいと思っている真壁くんの内に
踏み込むような行為なのかもしれない。


真壁くんがわたしを拒絶したのは、それが、彼自身の家族の問題だから。
離れ離れに暮らし、時には統治していた魔界を守るが故に実の子に刃を向けた大王様。
誤解は解けたものの、そこから新たに育まれ始めた家族の形は繊細な、まるでガラスの様なものだったと思う。
それは完成を見ないうちに再び打ち砕かれてしまった、突然の大王様の死という形で。

真壁くんは大王様の死に、気丈にも涙を見せることは無かったけれど、
果たしてどう感じたのか、いつもの無表情に隠された心の内を窺うことは出来ずに。
アロンがおば様を慕っていたように、きっと真壁くんも父親という存在を誰よりも望んでいたはず。


幸いなことに、未だ近しい者を見送る哀しみを経験していないわたしは、
両親がいるという幸せを当たり前の様に享受したままのわたしは、
今の真壁くんの傍にいる資格が無いということも、理屈では分かっている。
土足で踏み込むよりもただそっと見守るだけの方が良い時があることも、…今がそうであるように。
けれど
怒鳴った真壁くんの瞳の中に、寂しさが見えてしまったから
拒んだ背に溢れそうな感情を必死に堪えようとしている姿が分かってしまったから

他人に容易く自分の心の内を見せる人ではないと分かっているけど、
だからこそ余計に、一人何かを想うその時に傍にいてあげたかった。


ね、真壁くん、何があったの? 
ううん、話してくれなくてもいい、でも傍にいさせて。
…もう決して離れないと決心した、あなたの傍に。


ゆっくりと階段を上るとドアの前で一つ小さな息を吐き、わたしは真壁くんの部屋の戸を小さくノックした。





コンコン…


返答のないドアの前に立ち待ち続ける、その時間がひどく長く感じられた。
急いでいる時には気にならなかった紙袋の重みに手がだるさを覚える。
もう一度ノックしようとした時、ドアは内側からゆっくりと開かれた。


「……」
先程と同じ服装のまま現れた真壁くんの表情は、部屋の暗さゆえにはっきりとは窺えなかった。

「あ、あのねっ、夕飯、持ってきたの」
「……」
「…渡したら直ぐ帰るから」
無言のままドアノブに手をかけた真壁くんからは先程よりかは薄れているものの、
未だ拒絶のオーラが感じられた。
その態度についさっきまで思っていたのとは反対の台詞がわたしの口から零れる。

「め、迷惑だったよね。 …ごめんなさい」
「…入れよ」
泣き出したいような気持で袋を手渡そうと差し出したわたしの手首を真壁くんは掴み、そして儚く笑った。



真壁くんは台所に紙袋をそっと置き、そのまま部屋へと上がってゆく。
承諾は得たけれども、それでも何となく躊躇いを覚えて上がり框に立ったままのわたしを見て、
真壁くんは先程よりかは感情を顕にした、いつものからかうような口ぶりでわたしを促した。

「どうした、あがれよ」
「お邪魔…します」
「メシ、わざわざあんがとな」
「…ううん」
卓袱台越しに真壁くんと向かい合って腰を下ろしたけれど、言葉が続かない。
ここまでわたしを急かしていた気持は、単なる自分の独り善がりでしかなくて。
続かぬ言葉に沈黙が、陽が落ちて一段と濃さをました宵闇が、二人を包む。


「オヤジの…」
不意に真壁くんが言葉を漏らし、顔を上げたわたしに卓袱台の上に置かれていた物を顎でしゃくった。
そこに載っていたのはポケットにでも入れられていたのか緩くカーブを描いた封筒と
よれて広げられた古めかしい紙が一枚。
…それはきっと、真壁くんの態度を硬化させる原因となった物。

「遺した物、だと」
そう呟いた真壁くんの口調には、どこかやるせなさを感じさせる音が含まれていた。

「お袋が言ってたんだ。
 以前に、…俺が元の姿に戻った頃、親父は俺に魔界人としての正式な名称を付け直してはどうかと。
 お袋はその言葉に、俺の性格から否定するだろうと告げ、その時は親父も納得して話は終わったらしい。
 けど、自分の意見は通す頑固者だったからな、諦め切れなかったのかもな…」

初めて語られる話に、ほんの少し前のことなのに随分と遠い昔のような錯覚を覚えるのは、
その間に色々なことが有り過ぎたせい。

双子の王子が不吉だとされた件に関して一応のかたがついた時、
それくらい早くの段階から本心を見せて互いに歩み寄っていれば、
もしかしたら真壁くんと大王様との関係は、父と子の関係はもっと違ったものになっていたかもしれない。
ううん、そんなことはわたしなんかよりも真壁くん本人が一番感じているはず。


どう言葉を繋げていいか分からず、普段はうるさいくらいにお喋りな自分なのに、
わたしはその紙を手にしたままじっと文字を追い続けた。



「どうするかは俺の自由だと。 …ったく、どうすりゃいいってんだよなぁ、こんな落書き」

こんな落書き、と真壁くんが本当に思っているのなら、わたしがここを訪れるまでの間に
彼が陽の落ちた部屋で、明かりも点けずに佇んでいるはずがない。
それだけこの紙に意識を奪われていたということ。
けれど、おくびにも出さずわざとぶっきら棒に、何も感じていないように振舞う真壁くんに、
それが彼の性格だと分かってはいるけれど、一枚壁を隔てた向こう側で独りきりで膝を抱えている姿を
見てしまった様な気がして、わたしは自分でも気付かぬうちにぽたぽたと涙を溢していた。


「ちょ、何でお前が泣くんだよ。 
 こんな訳わかんねぇもの形見に渡されるはで混乱してるのはこっちの方だぜ…」

抑えるのが習慣になってしまった自分の感情、王様への後悔や思慕が、
その殻を突き破って噴出しそうになっているのか、真壁くんの口調は戸惑いと
苦り切った響きをわたしの耳に残して。
わたしは思わず真壁くんの腕を掴んでいた。

「泣きたかったら泣いてもいいのよ、かっこ悪いとか自分に似合わないとか
 そんなこと気にしなくていいの。
 どんなにかっこ悪くてもいいから、真壁くんには本音で接してほしいの!」
「前も言ったなそれ。 …あの時も」

あの時…高校のボクシング部の勧誘に絡まれた、まだ彼が生まれ変わる前の冬の事。
逃がすためにひどく傷を受けてしまった真壁くんの姿を見て泣き出したわたしに、
彼は溜息混じりに呟いた、痛くて泣きたいのはこっちの方だと。
昔を思い出したのか、真壁くんはふっと遠くを見る目つきになり。
答える代わりにこくんと頷いたその拍子に、はらはらと落ちた涙が服の色を変えた。


そうよ、何度だって言うわ。 
真壁くんの哀しみを失くすことなどきっと出来ないけれど、
押し隠している気持に添うことは出来ると思うから、わたしの前ではありのままの真壁くんを見せて。


「ね、一緒に泣こ?」
「ブッ」
「どうして? …また笑う、わたしは真面目よっ!」
「わーったわーった」

真剣に訴えたわたしの言葉に噴出して、その反応に噛み付くわたしを真壁くんは正面から捉えて。
漸く笑いを堪えた真壁くんの瞳には真剣さが帯び、それは薄闇の中でもわたしを射抜いた。 
真剣さ…よりはむしろ、それは幼子が縋りつくような眼差しだった。

「情け…なくてもか?」
「どんな真壁くんを見ても、好きな気持は変わらないわ」

顔を歪ませた真壁くんは、わたしの言葉が終わらないうちに身体を引き寄せると口唇を奪った。
それはキスというよりは、迸る激情を何かに摩り替えようとするかのような切ない口付けで。
息継ぐ暇もないほどに重ねられる口付けは、いつものように包み込んでくれるような優しさは無くて。
でも、それでもいい 
たとえ言葉に出来なくても、何らかの形で感情を表す真壁くんを、わたしは受け止めたいから。
いつもより強引で性急な求めも、その心の内から来ているものならば受け止めてあげたい。

わたしは激しい抱擁に翻弄されながらも、吐息に混じる嗚咽にも似た響きを外に漏らすまいと、
彼の大きな背を抱くように小さな腕を回した。








シーツに包まったまま真壁くんは起き上がると、畳に落ちていた紙を再び手に取った。
わたしも身を起こしては真壁くんの胸に頬を寄せてそっと覗き込む。


たった一枚きり、そして己の気持の一行もそこには書かれていないけれど、
けれど確かに大王様が真壁くんにあてた手紙にわたしは思えた。



王家の紋章の透かしが入った古い紙の一番上には、大王様の名前。
レドルフ=エンバレン=ウォーレンサー、
その下にはアロンの本名の、アロン=ルーク=ウォーレンサーの名。
続けて書かれているのは、アロンに韻を合わせたのかマロン、ガロン、コロンと幾つもの候補が
書かれては線で打ち消されていた。
そして、空欄が続いた紙の一番下には、一際力を篭められたとわかる筆圧で、
俊=真壁=ウォーレンサーと書かれていた。 …たった、それだけ。

けれど、自分の名の真下に書かなかった、ううん恐らく書けなかった真壁くんの名前との距離と、
その筆跡の強さに、当時の大王様の気持を思うと今はただ、哀しくやるせなく思う。 …けれど。


「ったく、何を考えてたんだか。 改名だなんてする訳ねぇのにな…」
やっぱりちょっと皮肉げな声で、それでも大王様の筆跡を焼き付けるように見つめたまま真壁くんは漏らした。

「でも…」
真壁くんは手の中の紙から口を開きかけたわたしに視線を移し、目で優しく先を促した。

「それだけ、真壁くんのこと想ってたってこと、すごく伝わってくるよ。
 だって、一度はおば…お后様に退けられたんでしょ? 
 それに、この紙に書かれているってことは、きっと執務中に書かれたのよね。
 それだけいつも真壁くんのことが気になって、頭から離れなかったってことじゃない。
 ここに書かれたこれらの名前、真壁くんは否定するだろう、使わないだろう…
 でも、そう思いながらこれだって大王様は捨てられずに、大事に取って置かれたんだよ。
 真壁くん、ちゃんと愛され…」

上手く形に出来ずに途切れ途切れになった言葉は最後まで続かなかった。
それは真壁くんに遮られたからではなく、わたしが言葉を失ったから。









真壁くんの双眸から零れ落ちた滴が、闇の中で眩い光を放っていた。
何故自分の頬が濡れているのか、目の前が滲んでいるのか分からない、そんな表情で。



真壁くんが、ううん男の人が泣いているのなんて初めて見た。
切なくて、清々しくて、そして何て奇麗なんだろう。

「まか…」
「あれ…なん…で」

ぽとりと垂れた滴に不思議そうな表情で手を伸ばす真壁くんの手を、わたしはそっと押さえて。
目の縁にまだ湧き上がる滴を指でそっと拭う。
真壁くんはわたしのその仕草を振り解こうとはしなかった。


「良かったね。 …それに真壁くんだって、ちゃんと大王様のことお父さんだって認めてたじゃない。
 気持は…通じ合ってたんだよ…」


“通じ合ってた”のわたしの言葉に真壁くんは大きな身体をぴくりと震わせ息を止めると、
暫くの後大きく、深く息を吐き出した。
あの日から、今日までずっと心につかえていた何かが彼の中で昇華されたような、
そんな風にわたしは思えた。


目の前の真壁くんは心の内を、ありのままの姿を曝け出していて。
そんな彼を見ることを許された嬉しさよりも、その姿に、わたしはただ愛しさだけが込み上げる。



「…見んな」

ぐしゃりと髪を掻き毟っては表情を隠そうとする真壁くんの長めの前髪を、
わたしは指で優しく梳いては横へと流して。
そっと彼の頬に手を添えて小さく呟いた。

「イヤ。 …どんな真壁くんも…わたしが見てる …ずっと」

そして目元にそっと口唇を寄せては未だ煌めく滴を掬う。
しょっぱいはずの涙は、わたしの口の中で何故か甘く広がって。


「江藤…」
真壁くんの口唇からポツリと溢れたわたしの名前、今はその言葉が彼の口から聞けるだけで充分。




自分をすっぽりと包んでしまう広い肩に手を回しながら、わたしはそっと胸に真壁くんを抱きしめた。





ガラス越しに射し込む月明かりだけが、そんなわたしたちを優しく包み込む。








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