大きな窓から一杯に降り注ぐ光はそれに見合うだけの充分な明るさを室内にもたらすけれども、
温かさはその光量ほどには感じられず。

それは数年前、二つの月のうちの一つが太陽に変化したから、なのだろうか。
…もう結構経つんだな。
窓の桟に腰掛けて、ぼんやりと窓の外を眺めながら俺は思った。

「魔界の雰囲気も…随分と変わったのよ」
魔界で時を過ごしたことなど殆ど無い自分にそう言われたところで違いとやらは分からぬけれど、
双子の王子の伝承を巡って対立した魔界の王との、親父との誤解が解けて以来、
この城で生活を送るようになったお袋はそう言ってちょっと笑った。


それは二千年前からの輪廻がやっと終結し、憂慮するものが無くなったからなのか、
あるいは現王であるアロンと前王の性格の違いによるものなのか、定かではないけれど。
久々に訪れた城を取り巻く空気は確かに以前と違っていた。
ぴかぴかに磨かれた手摺、豪奢な調度、魔界を統べる者に相応しい城のあちこちに飾られた装飾品も、
以前は冷ややかな印象ばかりを受けたのに、それらはどこか懐かしさを以って俺の来訪を迎え入れた。


全てが終わりアロンが王位を継いだ後、魔界を訪れることが無かった訳ではないが、
突然の父の死に、俺に“頼りにしてるから”と抱きつきながら涙を拭ったアロンも
今ではつつがなく治めているようであるし、親父には程遠いが“王の貫禄”が備わってきたようだ。
そして俺自身もやっと訪れた平穏な生活に、かったるさを覚えながらも学校へ通う日々が始まり。
また随分と遠去かってしまっていたボクシングへ再び本格的に取り組み始めたこともあり、
お袋のことは気に掛かりながらも、足を運ぶ回数は必然的に少なくなって。
たった一人でこの城を訪れたのは随分と久しぶりのことだった。




「で、何だよ、用って?」
部屋に入るなり切り出した俺にお袋はクスクスと笑いを溢す。

「あらあら、せっかちねぇ、久しぶりに来たっていうのにそんなに早く帰りたいのかしら。
 それとも折角の休みなら母親よりも蘭世さんと過ごしたい…かしら?」
「…え、江藤のことは関係ないだろっ!」

お袋から“一度城に来てちょうだい”と言伝られた俺が江藤家を訪れたのは、
休日にしてはまだ早い時間のこと。
簡単に挨拶だけを済ませて足早に地下室へと降りる俺に付いて、
自分の家の中だというのにわざわざ扉の前まで見送りに来た江藤の姿を思い出し、
思わずどもりながら返す言葉にも、お袋は意味有り気な笑いを浮かべるばかりで。
…ったく、クソ、やりづれぇ。


が、ちょっとしたやり取りにいたずらっぽく微笑を浮かべるお袋を見て、
どこかホッとしたのもまた正直な気持で。

魔界の輪廻の渦に巻き込まれてしまったのは俺だけではない。
俺とアロンを産んでから俺と共に人間界に追放されたお袋。
一時は、王妃だったことを含めて魔界での記憶を奪われていたとはいえ、
それまでの立場から一転し、俺を育てながらの母と子の二人だけの生活、
その頃のことをお袋は殆ど口にすることは無いけれど、決して平坦な道のりではなかったと思う。
全ての誤解が解け壮絶なる親子の争いに終止符が打たれ、再び寄り添い始めた二人に与えられたのは
他の魔界人の夫婦よりも遥かに短い時しか許されず、…しかも唐突に終焉を迎えた。


そして、同じことは俺にも言えた。
果たして心の底から親と子として、親父ときちんと向き合えたのか、分かり合えたのか。
そう問われれば、誤解が解けてからも互いの不器用な性格が災いして、自信を持って諾とは言えず。

止めを刺そうとする冥王と俺の間に親父が割って入ったのは、そしてその大きな身体が消え去ったのは、
瞬きする間もないくらい短い間の出来事だった。
親父の行動、俺に向けた一瞬の表情と名を呼ぶ声、それは魔界の偉大なる王ではなく、
今までに俺が目にしたことのない、そして存在を知らぬ幼い頃から密かに望み続けていた
“父親”としての姿だったのだろうと今では思うけれど。
やっと全ての結末を迎え、起こり得ない事象が次々と起こったあの日の出来事に紛れて、
全ての感情が麻痺したような状況の中で、親父の死は悲しさよりも喪失感だけを鮮烈に残した。


以来、日常を送るのに忙しいだの、アロンの邪魔をしないようにだの一人勝手に理由を付けて、
自分から魔界に来ることを、俺は無意識に避けていたのかもしれない。
そして、親父が使っていたというこの書斎に足を踏み入れたのも、今日が初めてのことだった。




「形見分け…とでもいうのかしらね、人間界でいう所の」
分厚い絨毯の上にどっしりと配された書物机はかつて使っていた人物の印象そのままで。
机上に置かれた王家のために特別に設えられたと思しき紙の束、羽の付いたペンはペン立てに刺さり、
インク瓶には青い液体がギリギリまで満たされていた。
まるで主は席を外しているだけではないかと思う程に全てがそのままにされている書物机に近付き、
お袋は愛しげにその表面をなぞった。

「ここも、そのままにしておく訳にもいかないし。 そのうち他の誰かが使うことになるかもしれないし…」
広い城内のこと、部屋は豊富にあるし、ここを使う事を許される“他の誰か”は
そうそういる訳ではないだろう。

けれど、そう理由を付けて自分の中で何らかのけじめをつけようとするお袋の気持は
鈍い俺にでも何となく分かったから、ただ、小さく頷いてみせた。


言葉にしなくても通じるものがある、親と子ならば。 …今のお袋と俺のように。
では、俺は親父とは通じ合えたのだろうか。
アロンのように涙を流すことなく天上界へと向かった親父を見送ったあの日以来、
鋭い痛みがさす訳ではないけれども、心に刺さって抜けないままの棘が、
幾度繰り返しても出ない答えを求めて、また小さく疼いた。

それは強いて言うならば後悔…だろうか。
父親の姿を追い求めていた幼い頃には欠けていたピースは、この手に与えられたのに。
埋める隙間を模索している間に“父親”というパズルは枠ごと粉々に砕け散って、二度と完成することはなくなった。
お互いがもう少し素直な性格だったら、あるいはもう少し時間があったならば…。
親父の気配を色濃く残す部屋で、悔いだけが俺を包み込む。



「といってもあの人もあなたと同じで物に執着が無かったのよね。 
 それに日記を書き記すような性格でもなかったし」
「……悪かったな」
「あら、ちゃんと親子だったって言ってるのよ、たとえ一緒に過ごした時間が短くてもね。
 あなたの中には確実にあの人の血が流れているわ」

思わぬところで親父と俺との相似点を指摘され、ぶすっとして返す俺をお袋は眩しそうな眼差しで見つめる。
それは“真壁俊”ではなく“真壁俊の中に見える親父”を見ているかの様に
懐かしさと、愛おしさとを滲ませた表情だった。


そして再び視線を落とすと一番上の引き出しから一通の封書をそっと取り出し、俺へと差し出した。
正式な書状に使われると思われる王家の紋章の透かしの入った、厳かさを感じさせる封筒だった。
どうしていいか分からず受け取らぬままに見返したお袋の目尻には光るものがあった。

「これは、あなたの物よ。 どうするかは中を見て俊が決めなさい。
 …でも、引き出しの奥に大切そうに閉まってあった、それだけは覚えていて」
「…ああ」

わざわざ日記を書くような性格でもなかったと言われるところや、
宛名も書かれておらず、まして封もされておらぬ簡素さから手紙の類ではないのだろう。
…けれどお袋はこれが形見だと言う、親父の。

受け取った封筒はその羽のような軽さに反して、俺の手の平の上でずっしりとした存在感を放った。
その場で直ぐに開けられる状態であったにも拘らず、俺はそれをジーンズのポケットへと捻じ込んだ。
何故かは分からないが、この場で開けるべきではない物の様に思えたから。

「後は、あの人が使っていた物や服で持っていきたいものがあったら、いいわよ?」
「持ってっても使えねぇモンばかりだろ、アロンならまだしも。 
 これで充分だ。 …前にお守りも貰ってるしな」
「そう、分かったわ」
「用はそれだけか? じゃあ、俺帰るわ」
「…ええ」

無造作にポケットに突っ込んだ手紙を上から軽く叩き、思い出に沈みかけた雰囲気を軽くするべく、
俺は意識的に口調を高めては湿っぽい空気を断ち切ろうとした。
それにつられて、あるいは無理をして作ったのかもしれないお袋の笑みに見送られ、俺は魔界を後にした。





城には及ばぬが、それでも重厚な音を立ててあかずの扉が後ろで閉まる。
自分でも気付かぬうちに気が張っていたのか、扉に背を預けた俺の口から思わず溜息が洩れた。
そしてジーパンのヒップポケットをそっと押さえる。

親父が俺に遺した…モノ

今までそんな物が存在するとは思ってもいなかった自分にとって、
この封筒は青天の霹靂であり、僅かな戸惑いをもたらしたのもまた事実だった。

何故、今になって?
その答えすら聞くことを忘れ来たことを、俺は漸く思い出した。

まぁいい、全ては、中を見れば明らかになることだろう。




「おかえりなさいっ!」
「うわっ!」
耳をそばだてていたのか、あるいは地下室の様子をずっと窺っていたのか、
忽然と現れた江藤に驚き、俺は思わず声を上げる。

「どうだった 魔界は? 皆は元気だった?」
俺の、今日の魔界の来訪の意味を薄々と察しているのか、江藤は無難なところから様子を窺おうとする。

「…ああ」
「ね、今日は? この後の予定は無いの? だったら家で夕ご飯食べていかない?」
「いや、帰るよ」
「え? バイトでもあるの?」
「いや、ねぇけど」
「じゃあ…」

決してポケットの中の物に気持を全て奪われている訳ではなかった。
けれど、家族に、息子や孫には囲まれるものの、この先も一番愛した者とは添い遂げることの出来ないお袋のことや、
無意識に蓋をしてずっと向き合おうとしなかった親父に対しての想い、
それらを考えるのは“今”なのかもしれない。
そして、いつも互いを思いやり、穏やかさと愛に満ちたこの家の人々の側で、…それは不可能なことだった。
決して彼らがそうした目で俺を見ることはないと分かっていても、
そこに可哀想だとか労わりの込められた目で見られてしまうような気がして。
そして、自分の孤独さだけがより浮き彫りにされてしまう気がして。

何よりもそんなことを思ってしまう自分が腹立たしくて。
行き場のない感情を持て余した俺は、思わず声を荒げていた。


「るっせーな、ほっといてくれっ!」
「まか…」

ビクッと肩を震わせ、言葉を途切れさせる江藤。
彼女は悪くない、純粋な好意からの言葉だということも嫌という程分かっている。
ただ自分の感情を素直に言葉に出来ない俺はぶっきら棒に言葉の断片を吐くしか出来ず、何時も江藤を傷つける…今も。

「わりぃ、 …今日は一人になりたいんだ」

そのまま俯く江藤を後に残して、俺は地下室の階段を駆け上った。




地下の声が響いたのか書斎から顔を出した親父さんにぺこりと頭を下げて、俺は江藤家を後にした。








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