「お早うございます」

寝ぼけた眼を擦りながら乱れた髪もぼさぼさで、頭も働かないままに、
ぽてんとわたしは柔らかなベッドの上に座り込む。
開かれてゆくカーテンの隙間から徐々に射し込む朝日が眩しくて目をしかめて。
ついでにふわぁと一つ、小さなあくびをシーツへと落とした。

カーテンを開けてわたしからは逆光になったままの位置から、
感情の無い、抑揚の無い声で挨拶するのは…わたしの執事。
今朝もいつもと変わらぬ、黒のジャケットにベージュのベスト、首元できっちりと絞められた細いタイ、
白いシャツは今日も立てられた襟の先までピンと糊が利いて、皺一つ無い。
…朝から寸分の隙も無いの…ね。
僅かに身を屈める動きに合わせて香るコロンが、辺りを淡く染めた。

「お目覚めですか、お嬢様」

他の誰からも“お嬢様”と呼ばれることに抵抗は無いけれど、
そう呼ぶのが一番相応しい立場の彼の口から零れる言葉は、わたしにとって一番聞きたくない言葉。
何故なら、わたしと彼との関係を一言で表してしまうから。


もういい加減に寝癖でぼさぼさになった頭や、涎の痕のついた顔を見せる歳じゃない。
仮にも相手は男の人なのだから。
なのに彼は眉一つ動かすことなく、淡々とわたしの身支度を進める。
この薄く透けるような寝間着も、彼の眼には全く入っていないのかしら?

じっと相手の顔を覗き込んでしまうのは、わたしのあまりお淑やかではないと窘められる癖。
けれど、その原因は他でもない彼にあるのに。
いつもわたしの中を通り過ぎてどこか遠くを見ているような、何を考えているのか分からない瞳。
ねぇ、わたしの言ったことをあなたは忘れてしまったの?


見上げるわたしの視線を大きな栗毛のブラシで遮って一言、「髪を梳かしましょう」と。
小さな背を覆ってしまう長い黒髪は、昔から変わらないわたしの化身のようなもの。
その髪を梳くのはいっつも彼の役目だ。
骨ばっているけれど細く長い指でブラシを握り、大きな掌が頭を柔らかく撫で、包む。
その手の温もりにわたしはいつも安心して、うっとりと身を委ねてしまいそうになる。

「またお休みにならないで下さいね、お嬢様」
「わ、分かってるわよ あなたに言われなくてもっ…」
こうして、いっつも自分のものではない力でしか彼を動かせないことに
鼻の奥につんとこみ上げて来るものを必死に抑えて、わたしは乱暴に言葉を噤む。
彼がわたしの背で小さな溜息を吐くのが分かったけれど、
こういった態度しか取れない自分がもどかしい。 
……昼の光の下では。




彼がこの家に来たのは、わたしがまだ幼い頃。
「お前の執事だよ」と紹介された彼はわたしと同じくらいの年なのに妙に醒めた眼で。
抑揚の無い声で、誰か大人が書いた原稿を丸写しで覚えたような型通りの挨拶をした。
けれど、その眼はわたしの姿なんか映してなかったから。
“わたしの目を見てお話して、ちゃんと名前を教えて”
ぎゅっと腕を掴み、頭一つ分高い顔を覗き込んだら、
彼は困ったような驚いたような表情(かお)でわたしを見つめた。
彼の名前が“真壁俊”というのだと知ったのは、結局お父さまの口からだった。



いつもピシりと糊の利いたシャツに丈の長い黒のジャケット。
外出に備え白い手袋に通す指は身長と同じようにすらりと長く、どこか艶めかしい。

今時、こんな風に人に仕える事を生業にする人など、どれ程いるのかしら?
わたしの乏しい世界観で日常的な、当たり前なことは、大概が世間から見れば非日常なことが多い。
学校に通うわたしに従い、当然のように送り迎えもする彼を見る、周りの奇異な目を知っていた。
そして、それが奇異だけでなく、憧れの眼差しを含んでいることも。


彼の顔はとても整っている。
世間一般に見ても最上の部類に入るだろう。
きりりとした意志を持った切れ長の眼差しと眉、通った鼻筋、頬から顎にかけてのシャープな線。
物腰は柔らかく一見細身に見えるけれども、
実は鍛えられた鋼のようでいて靭な肉体が、衣服の下に隠れていることも知っている。
貧血気味で倒れがちなわたしを軽々と抱き上げ運ぶ腕は逞しくて。
いつだかそう告げたら、あなたが軽過ぎるのだと珍しく微笑んで見せた。


いつも、まるで気配を消しているかのように隅に控えているのに、でもわたしのことには目敏くて。
何かしようと思った時には、例えばお茶を飲みたいと思った時には、
既にその手にティーセットが用意されている。
まるでわたしの考えていることが何でも分かるみたい、そんな自惚れすら懐いてしまうほどに。




そうして、いつの間にか、わたしは彼がいないと何も出来ない人間になっていた。
たまに、本当にごくたまに彼が休暇を取った間、わたしはまるで抜け殻のようになり、
何をたずねられても聞かれても、自分の意志では喋ることの出来ないマリオネットのようだった。

「お前は彼がいないと大きなお人形のようだね」
呆れたように呟くお父さまは、この時、もしかしたら何かを予感していたのかもしれない。
けれど、そんなことに気付くはずも無いわたしは、戻ってきた彼の腕に飛び込んだ。

「もうどこにも行かないで」
いつまでも、…一生、彼がわたしの傍にいてくれる訳が無い。
人一人の人生を握ってしまうには、自分はちっぽけな存在であることぐらいは分かっていたから。
分かっていてもその安心できる身体にしがみ付いてわんわん泣いた、まるで小さな子みたいに。

「どこにも行きませんよ」
丁寧な口調は相変わらず作られたような声だったけど、
背を撫でてくれた手の温もりとわたしを見つめる優しい眼差しは本物だった。






“どこにも行きませんよ”
そう言った彼の言葉は正しい、今のところは。 
…そして、多分この先も。






夜の帳が下り、白熱灯の淡い光が壁に揺らめく一部屋。
カーテンの向こう、闇に時折チラチラと光るのは庭を警備する者が持っている灯りだろう。

「お嬢様」
「お嬢…さまは…やめて」
「では何とお呼びすれば?」
あくまで決定権をわたしに委ねる今の彼は、…執事は執事でも……黒執事だ。
魅惑的に微笑んで、わざとわたしの前に跪いて言いよどむ姿を下から覗き込む。
絶対、確信的な意図を持って、わたしが…ううん、女性なら誰もが断わることなど出来ない表情(かお)で。

「分かってるんで…しょ」
「さあ? 物事の間違いを犯さぬ為には的確に指示をいただかなければ」
そして薄く笑いを浮かべながら、彼はわたしに更に意地悪をする。
まるで、常日頃の頑是無い子の世話で降り積もった憂さを晴らすかのように。

「…江藤様?」
激しく頭(かぶり)を振るわたしはまるで駄々っ子だ。

「名前…で」
「わたくしからお嬢様を呼び捨てにすることなど出来ません」
どの口が言うの、口唇の端に薄く笑いを湛えて、わたしの顔が赤くなるのをじっと眺めているくせに。
そして、いつでも冷静で大人な彼は先にわたしに言わせるのだ、彼の名を。

「しゅ…ん」
気の抜けた、泡の消えた炭酸水のように甘ったるい呼び方。
わたしが彼の名を呼ぶと決して「俊」とは聞こえず、どこか甘えた響きを残して空(くう)にとける。
我慢し切れずに自分から彼に手を伸ばして。
そうして初めて彼はわたしを包み込む、その大きな腕の中に。

コーデュロイのツルツルした生地に顔を埋め、彼の匂いを胸一杯に吸いこみながらジャケットの袖を掴む。
わたしが一番安らぐことが出来て、そして一番どきどきする場所。

「そんなにしがみ付かれちゃ皺が寄っちまうな」
誰も聞いたことのない、ぞんざいな言葉遣いが彼の口から漏れる。
それは二人きりでも滅多に聞かない声。
本当はそう話す方が楽なのだという事もこうするうちに知ったこと。
そして、望んだ、あなたのそのままをわたしに見せてと。


「しゅん」
もう一度呼んだそれが合図だったように、彼はわたしを抱いたまま器用にジャケットを両の肩から落とし、
ベストの釦も外すとシャツに滑らせ、床へ落とした。
わたしは一枚の布だけを纏う胸に抱かれ、頬にしなやかな筋肉の感触を感じた。

きゅっともう一度力を篭めて彼にしがみ付く、それは名前を呼んでとわたしがねだるサイン。
頤に指をあて、そっとわたしを上向かせると、長い髪の一房をその大きな手に取った。
彼はもう一度魅惑的に微笑むと、掌の上のわたしの髪に口唇を寄せる。
髪の艶を移したかのように、艶やかに色付いた口唇がわたしの名前を象った。

「蘭…世」
甘く、切なく、愛おしげに、彼の口から零れるわたしの名前。
いつもの無機質な声とは違う、大切な想いを形にしたかのように優しく、
わたしの胸の真ん中まですとんと直に響き落ちて行く声で。
たったそれだけで、わたしの頭は真っ白になり何も考えられなくなってしまう。

「そんな顔…するな」
耳朶まで赤く染めて、わたしから顔を逸らそらそうとする彼に、
窘められることも厭わずに表情を窺おうとする。

「どうして? …わたしは…しゅんを見たいのに」
「何も出来ないようにしてきたんだ、…俺が居なくては。
 なのにお前は俺が教えたことの無い、見たことの無いそんな顔をするのか」
「ううん、何も出来ないわ。 …出来なくてもいいの、しゅんが傍に居てくれれば。
わたしがしゅんの見たことの無い顔をしてるとしても、…それはしゅんがもたらしたものよ」

わたしの言葉に虚を衝かれたように口篭ると、彼はふっと微笑んだ。
愛しくて仕方が無い、そんな想いが溢れ出た、わたしの一番好きな表情(かお)。
その顔に同じように微笑み返すわたしはいつのまにか彼の下になり、二人でベットに倒れ込む。
背中で羽枕がぽすんと軽い音を立てた。

「ったく、我慢…出来なくなる」
本当に辛そうに眉を顰めて、彼はわたしの耳元で囁き、
わたしの髪を大きな手で優しく撫でながら、まるで初めて会った時のように本当に困った顔をする。
その顔に微笑むと、わたしは彼の首に腕を回し、そっと彼の口唇に自分の同じものを押し付けた。

それは彼に再びイニシアチブを委ねる、わたしの最後のサイン。
「がまんしないで…」


「どこにも行かない」  − 昼のあなたはずっとわたしのもの。
「どこにも行かせない」 − 夜のわたしはずっとあなたのもの。


同じようでいて全く意味の違う言葉だけれど、
わたし達にとってはきっと変わらずに同じこと。




明日の朝になれば、あなたはまたいつもの彼に戻ってしまう。
…そしてわたしもいつものお嬢様の顔になる。
けれど
わたしと彼は、一晩中耳元で囁かれる二人だけの秘密の言葉 −名前− の鎖で繋がれている。












 ― UPの際のコメント ―

さとくー

こう言ったイベントでもないとと思いパラレルなぞ書いてみようと企みましたが、
お嬢様蘭世ちゃんとバトラー真壁くんを書いている間、頭に浮かんでいたのはかるさんの絵でした。
その勢いのまま(迷惑なことに)コラボを申し出たところ、かるさんが快諾してくださいまして、
一つの作品に仕上げることが出来ました。
いや、もう、マ○ア垂涎モノとはこういう事を言うのだと…。<待て;
感謝の言葉を幾つ並べても足りませんが、本当に有難うございました!
                      
 +++++     +++++     +++++     +++++

かる

さとくーさんの最初のメールにバトラー真壁くんと書いてありまして、私はバトラー=格闘家と解釈して、
意味不明の返信をしてしまいました・・・。
その後、作品の概要を送っていただいたのですが、その時、やっと「ああ!Butlerかあ!!」とやっと気付き、
パソコンの前で真っ赤っかになってしまいました。ほんと私はアホですね(笑)
作品を読ませていただいて、この艶っぽく、魅惑的な世界を私、表現出来るのか・・・、
私艶っぽい絵って苦手・・・というか描けないんですが、がんばって描いてみました。
描いてみて、やっぱり色っぽくならないですね・・・すいません。
作品のイメージ壊してないといいのですが・・・。








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