月夜のとはずがたり 





ほ〜んと月の奇麗な夜ね。
え? 私のほうが奇麗だって? 当たり前じゃない、何てったって天下の神谷曜子様よ。
ふふっ、でも嬉しいわ、お世辞でも。
え、違うって? だってあなたはとっても口が上手いもの、どこかの誰かさんと違って。
ん? 気になるの? バカね、もう昔のことよ。

けどそうね、ちょっとだけ昔に戻っていい?
ううん、聞いて欲しかったのかもしれない、誰かに。
イヤ? …聞いてくれるの? やっぱりあなたって優しいのね。


…じゃあ、あの月が私を照らす間だけ付き合って頂戴、昔の話に。




そうね、どこから話そうかしら。
でも俊との話を始めるとしたら随分と前からになってしまうわよね。
いくら秋の夜が長くったってそんな昔のところから始めたら夜が明けちゃうから、かいつまんで話すわね。


とにかく私にはお母さんがいなくて、俊ちゃん、あ、昔はそう呼んでたのよ。
想像が付かない? ぷっ、そうかもね、今の彼じゃどう見たって俊さん? 
なんかそれもおかしいわね、ま、いいわ、とにかく二人とも片親だった。

うちは稼業が稼業だからお遊び相手と相応しくないって他の親から思われることもあったし、
彼のお母さんは女手一人で働きながら俊ちゃんを育てていたから、当然忙しかった。
看護婦、ああ今は看護師って言うのよね、 …だったから、仕事も不規則で。
だから俊ちゃんは私にとっていい遊び相手だった。

小さな頃からカッコ良くて、ああでもぶっきら棒で無愛想なのはその頃からだったわね。
そのくせ、変なところで優しくて。
母親がいないから我侭なんだって、そんな風に陰口を叩く奴らから庇ってくれたのは、いっつも俊ちゃんだった。
もちろん曜子さんだってやられっぱなしじゃ無かったですけどね。

中学生になってボクシングを始めてうちのジムに通いだして、
だから私は初恋はそのまま成就する、俊ちゃん、ううんその頃には俊って呼んでたわね、
と一緒になるって信じて疑わなかった。
…あの日、アイツが中学校に転校して来るまでは。


ああ、いやね、短く話をするはずだったのに、これじゃあ終わらないわよね。
力もじれったいだろうし。

とにかく、曜子さんにとって初めてのライバル出現よ。
だって、あんな私の家のことや俊の態度にひるむことなくバカみたいに好き好き連呼して、
アタックをかけてくる子なんて他にいなかったもの。
いるはずないわよね? 
ヤクザの娘に言い寄られ、ケンカばかりする不良のレッテルを貼られた男子に近付こうと思う女なんて。
それに俊はボクシングに夢中になってて、女のことなんか興味ないねって雰囲気だったし。
俊を間にリングに立って殴り合いもしたことがあったのよ? 普通、女同士でそこまでやる?
顔に痣を作りあって、しかもそんな女二人を見て心配するどころか呆れた顔だもの、俊もとんだ色男よね。



そうね、それが変わったと思ったのはいつからかしら?
急に俊とアイツ…江藤蘭世が中学からいなくなって…。
私? 必死に探したわよ、もちろん俊の行方だけ、ね。

やっと見つけたと思ったらパパが想いを寄せていたおば様は再婚してるわ、俊は何故か蘭世の家に居候してるわ、
変な学校は開かれてるわ、金髪碧眼のマフィアのボスは蘭世に言い寄ってるわ、もう訳が分からなくて。
え、その男のことは初耳? そうね、私もすっかり忘れてたわ、何故かしら?
顔が緩んでるって? だってちょっといい男だったんだもの。
ああ、やだ焼きもちなんて焼かないでよ、彼…え〜とカルロって言ったかしら? 
頭にくるわよねぇ、年嵩の男性だった彼も蘭世のことしか眼中にないって感じで。
あんなお子様のどこがいいんだか、男共の趣味って分からないわ。

俺は違うって? 分かってるわよ、だってあなたが選んだのはこの私だもの。
それに、彼の姿はそれきり見ることは無かったんだもの、どうしたのかしらね。



変よね、頭脳明晰な曜子さんとあろうものが、その頃の記憶がすっぽりと抜け落ちているのよ。
自分が何処にいたんだか、何をしていたんだかさっぱり分からないの。
パパは私はちゃんと家にいたし、あんなにお淑やかになって学校に通っていたじゃないかって言うんだけれど。
でもホントよ、いきなり過去からタイムスリップしてきたみたいな感覚で。
目の前に見たことの無い数式が書かれた教科書が開かれて、明日からテストだって。
いくら秀才の誉れ高い曜子さんでもさすがにその状況にはお手上げだったわ。


それで心機一転のつもりで編入した学校でまた俊と…蘭世に会っちゃうんだから、しかも同学年で。
もう、これはやっぱり私には俊しかいないんだわって思うわよね。

やだ、そんな顔で睨まないでよ、力だってそうじゃない?
父親の好きだった人の娘ってだけで見も知らぬ私と結婚するって決めてたじゃない。


運命だって?

運命……か。 


ふふ、そうね、…じゃあ私と俊が結ばれないのも運命だったって、ううん、言い方を変えましょうか。
俊と蘭世が結ばれるのも運命、だったのかしらね。




あら、ありがと、さすが気が利くわね、力。
こっからが本編てとこかしら、何しろ曜子さんの失恋話ですものね。
お酒の力でもちょっと借りないと、さすがに口が滑らかに動かないわ。


俊はその頃はもう蘭世の家じゃなくって一人アパートで暮らしてた。
私から見ればとっても狭くてお世辞にもいい家とは言えなかったけど、
どうやらバイトで生活費を稼いでいた俊としては精一杯だったのよね。
ちょっと言ってくれたら家だってバイトだって不自由なないように口を利いてあげられるのに。
でもそうしないのが俊だった、そういう点では変わってなかったけれどね。


そうね、再会して思ったの、どこかが変わったって。 ああ、蘭世のことじゃないわ、もち俊のことよ。
成長したからだろうって? 確かにそれもあるけれど、もっと根本的なものが、ね。

入学式の後にちょっとした騒動があって、高校では女子生徒にキャーキャー言われる様になったけれど、
俊のぶっきら棒な感じは変わらなかったわ。
近寄り難い雰囲気は相変わらずだったけど…でも昔の俊とは違うのよ。
何がとか、どこがとか、目に見えて変わったところは無いように見えたけど。
でも小さな頃から俊を知っている私は、彼が纏う空気が前とは違ったものになってるって思ったわ。
常に回りに対して棘を逆立てて警戒心を抱いていたハリネズミが、すっとその身を丸くしたような。

そうね、前と同じ様な日々を送るうちに段々と分かって来たのは、俊と蘭世の微妙な距離感の違いかしら。
中学の頃のトライアングルは見事に崩れていたわ。
正三角形だったのが、妙に縦に長い二等辺三角形になりましたって感じ? もちろん近い二点は俊と蘭世、よ。


でも私は前と同じだと思おうとした、だって悔しいじゃない?
自分の記憶があやふやな間にすっかり変わってしまったポジションを素直に受け容れる、だなんて。

ああ、もう何にでも賢しいのって時には残酷よね。
俊の蘭世を追う目とか、ふと交わす視線とか、そこに込められた想いにきっとアイツよりも私の方が気が付いてたはず。
昔のように蘭世と取り合う姿を見せたって前みたいにどこか呆れる様子の俊の位置は、
私と蘭世の中間からアイツの後ろへと変わっていた。 そ、完全に彼女を見守る彼氏の立場にね。


でも認めたくなかった。 認めたら今迄の私は? 俊を好きだった私の気持は何処へ行けばいいの?
だからなるべく真実を見ないふりして中学と変わらぬ態度を取り続けようとしたわ。
そんな日は長く続くはずが無いってどこかで分かっていたけれど。





じゃあ、決定的なものは?って言われたらやっぱりあの夜かしらね。
そうね、やっぱりこんな月の夜だった。
部活の合宿で出かけた先、夜ともなれば周りに灯りなんかない山の中の宿泊先。
あまりにも大きくて奇麗で、そして飲み込まれてし合うんじゃないかという畏怖すら抱く月の夜のこと。

ふふ、もしかしたらいい加減に現実を見つめろっていうことだったのかもね。

薄いカーテンを通しても降り注ぐ月明かりに惹かれるように私は起き上がって、
そして隣の布団が、蘭世の寝ていた布団がもぬけの殻だってことに気が付いた。

この曜子さんを出し抜こうなんて百年早いわよっ!
鼻息も荒く下りていった階下に人影は無くて。
喉の渇きを覚えた私は冷蔵庫から麦茶を取り出して喉を潤したわ。
どこもかしこもしんと静まり返って、聞こえるのは大き過ぎるくらいの虫の音だけ。
蘭世が俊と一緒にいるなんて思ったのは気のせい、お腹でも壊してトイレに篭っているだけなんじゃないの?
気のせいかとふんと鼻を鳴らして部屋に戻ろうとした時に目に入ったのは、床に伸びる揺れる影。

忍び足で中途半端に開かれたカーテンの隙間からそっと外を覗いてみれば月に浮かぶ二つの影。
それは蘭世と…俊だった。


何してんのよ、あんたたちっ!っていつもの私だったら割って入ってたでしょうね。
でもあの時はそれが出来なかった。

何よりも、月明かりに照らされた蘭世の顔があんまりにも奇麗だったから。
や〜ね、変な趣味はないわよ。 今だって私の方が数倍も奇麗だと思うし。
けれど、あの夜、月明かりに照らされて微笑む蘭世は、悔しいけどこの世のものとは思えぬ美しさだった。
それは、俊が隣にいたから。 だから、蘭世はあんなに奇麗な笑みを浮かべていたんだと思う。
そして俊も、とても穏やかな表情を浮かべていたわ。

何を話すでもない、ただ二人で月を眺めて。
柔らかな月明かりのヴェールは二人だけを辺りから切り取って優しく包んでた。
私の押し入る余地なんこれっぽっちも無かったのよ。 


ああ、違うわね、俊が眺めてたのは月なんかじゃない、隣にいた蘭世よ。
いつの間にかあんなに愛情溢れる眼差しで誰かを見つめるようになっていたなんてちょっとびっくりよ。

それに気付いた蘭世は柔らかく微笑み返してた。 
力はマリア様って見たことある? 
ほら、教会に像や絵があるじゃない、私にはその時蘭世とマリア様が重なって見えたわ。


そして次に目に飛び込んだのは、蘭世の手を自らの方へと引き寄せる俊の切ない表情と、
互いに寄り添って一つに重なった二つの影、だった。



ねぇ、小さな時に独りでいることがどんなに寂しいか分かる? 
え? 急に話が変わるって? 違うわよ、これも続きよ。

私はまだ女だったからパパに甘えられた。
組員だって組長の娘じゃ無下に出来ないし、おままごと遊びだって命令すれば逆らえずにするしかなかった。
けれどね、俊は違ったはずよ。 
抱えていた寂しさは私と同じはず、けれど状況が俊を早く大人にさせざるを得なかった。
おば様に心配を掛けない様に強がってみせて、自分の本心はじっと押し隠して。
早くこの手で食わせるようにしてやりたいって言ってたもの。

ぶっきら棒な態度だったのもどう自分の気持を表していいか分からなかったから、
人に弱みを見せたくないから。
…そんな俊を知ってるのは私だけだと思ってた。

けれど、いつの間にか蘭世も知ってたのよね。 
ううん、俊がそんな自分を蘭世に曝け出していたってこと。

そうよ、それだって気が付いてたわよ。
途切れ途切れの記憶の合間ですらはっきりと感じられたわ、俊と蘭世を繋ぐ鎖がどんどん太くなっていることを。
ある時、それが一時期細くなったかに見えた。
でもそれはフェイク、わざと蘭世に背を向けている俊の背中は、
本当はそれが気になって仕方が無い、小さい頃に強がってた俊ちゃんと全然変わってなかったもの。
バカで鈍い蘭世は暫く気が付いていなかったけれど、でも、それもいつの間にか元通り。
ううん、むしろ前より二人を繋ぐものは確かなものになっていた。


笑っちゃうじゃない? 
あんな月明かりの下で愛を語るなんて、ベタな恋人同士のそれじゃない。



それに…

手を伸ばしたのは …俊だった。
そっと蘭世の頬に手を伸ばして、温もりを確かめるように、瞳を覗き込むように。

優しく、強く、きつく …俊から蘭世を抱きしめた。


私がずっと欲しくて、でも差し出されることのなかった俊の手。
けれど、それは自分が必要とする、そしてされる手には躊躇いなく差し出されるものだったのよ。
手、だけじゃない、優しい眼差しも、頼もしい身体も、多分俊がこうと決めた人ならば、その全ては。


ずっと長い間堅く閉ざされていた俊の心は、
私を含めて誰にも開かなかった心は、唯一全開になるの、
いつの間にかガードをかいくぐって特別な存在になった、たった一人の人物、…蘭世にだけは。

それが分かっちゃったら、もうお手上げよね?




え? それからどうしたかって?

そのまま、布団に戻ったわよ。
覗き見するほど趣味は悪くないし、大体この曜子さんがそんな低俗なことする訳無いでしょ。
そうね、抜け殻のまんまの布団は蘭世の代わりに踏みつけてやったけど。
それくらい許してくれたっていいわよね?


そのまま自分の布団を頭から被って。
今見た場面も、光を放ち続ける月明かりも全てを無に返してしまおうと思ったわ。
ほら、時々記憶が飛んでたって言ったでしょ? これもそんな切れ切れな記憶の中で見た幻なんだって。
…悔しかったわよ、自分が俊の隣に立てなかったことが。
だって私が何年俊に恋してきたと思ってる?

でも、しょうがないじゃない。
いっそ蘭世が大嫌いで憎めれば良かったのにね。
あんな底抜けでバカで間抜けで、どうしょうも無いお人好し、
周りのことなんかひとっつも気にせずに、自分の気持だけで突き進んでくるくせに、
危機に陥った時に自分よりもライバルを守ろうとするバカな子。
だけど
俊が選んだのはそんな蘭世。
そして
…認めたくないけど…私、好きになってたのよ、…蘭世のことも。 


あ〜あ、バカバカしい、とんだ喜劇よね、自分でも笑っちゃうわよ。
そ、あの時布団を濡らしたのはおかしくって流した涙だったのよ、きっと。


そして私は決めたの、決してこっちから切り出してなんかやらないって。
きっとあの二人は自分達から私に言うことはないだろうって、多分、神の前で添い遂げると誓うその時まで。


この不自然な関係をもう少しだけ楽しませてよ、それくらい、いいでしょ? 
だから朝、寝不足で目を擦ってる蘭世の頭をいつもの通り叩いてやったわ。
“ひど〜い”って、それはこっちの台詞よね。
この曜子さんの目を腫らさせといて、それにも気付かぬ鈍感娘なくせに。


ふふっ、意地悪だって? 
意地悪なのはあの二人よ、結局最後までこの曜子さんにライバル役を演じ続けさせたんだから。



…でも本当に好きだった、俊のこと。

だから諦めなくちゃと思った、俊のために。
そして諦めてあげると思った、ちょっぴり好きになりかけてた蘭世のために。


え、諦められたかって? 私を誰だと思ってるの?
な〜んて強がっても仕方ないわね、今更。

心から二人を祝福出来たのは、チャペルの前で幸せそうに微笑んだ二人を見て、だったわ。 


けどね、今なら分かるわ。 気持は無理に消したり失くそうとするものじゃないってこと。
私が、蘭世が、そして俊が 確かに抱いていた、人を好きになる気持。
それはとっても大切なモノ。

たとえ、想いが通じ合えなかったとしても無駄だったとか、時間が勿体無いとか、
そんな損得で量れるものなんかじゃなくて、その上にまた新しい気持が降り積もっていくものなのよね。

…そして私の俊を想っていた気持の上にも、新たな感情が優しく舞い降りてきたわ。








や〜ね、泣いてなんかないわよ、月明かりが目に沁みるだけ。


え、ハンカチを貸してやるって? 
わっぷ、これ、パジャマじゃないの。 もう…… 

…ありがとう力、そして愛してるわ。


これで長い夜語りはお終い、そして一夜限りの夢物語りだと思って。
…だって、もう終わったこと、遠い遠い昔の話だもの。




今はあなたと巡り合えて良かったと思ってるわ、本当よ。









<後書き>

「衝撃!真壁君と蘭世のラブシーンを目撃してしまった曜子さんの話」
…とはちょっと違う気もするのですが、一応関係ありそうなので自分のコメントを。

ラブシーンを目撃ということで原作中の「離れられない〜」も考えてみましたが、
まだあの段階では決定打を受けるまでには至ってないような。
ああいうの?やその前の目の前で抱き合うシーン(神風高校との試合後)とかが積み重なって、
それでも蘭世ちゃんのことも好きになりつつあったからこの関係を出来るだけ貫こうとした…イメージがあります。
その分結婚式の「ホントに好きだったのよ〜」のセリフがぐっとくるんですけどね。

今回は決定的なシーンの一つってことでラブシーンを目撃させてみたけれど、
神谷さんがあんまりショックを受けて無さそうにしかみえないのが自分の今の限界かなと。(苦笑)




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